遺愛
聖マンゴ魔法疾患障害病院に来る時、時間があったら、私は少しの間でも五階を訪ねることにしている。
今日は明日の仕事がなくて時間があったから、バケットに綺麗に飾られている花を手に携えてきた。
花を手にぶら下げて見慣れた廊下を歩いて、目当ての病棟の、目当てのベッドのカーテンを開ける。
そこの景色は変わる様子はない。
一行に。
しかし、はその病室にも慣れたようで、花を備え付けのデスクの上に置いて、彼らの様子を見渡す。
やっぱりその病状――疾患は、変わる様は見られない。
でも期待はそれほどしていなかったから、唇に少し笑みを見せて椅子を求めて歩こうとした。
その時少し違和感を感じた。
この場であるはずのない感覚に、は驚いて背後を振り返る。
後ろから引っ張られているのだ。
「あら」
その時、カーテンが開かれた。
「、あなたも来て下さったんですね。この頃お客さんがいなくてとっても寂しくて……」
暖かく微笑んだ女性のヒーラーが言う。
馴染みの顔に、も表情を和らげる。
「ええ、此処に寄る用事もあったから」
「あらあら、また怪我を?」
は苦笑で応える。
ヒーラーはそれに応えてか応えていないのか、が持ってきた花を見て、何て綺麗!、と感想を述べた。
そしてヒーラーは、がその場から動けずにいる理由に気付く。
のマントを、アリスが引っ張っているのだ。
「――この頃、癖なのよ」
ヒーラーはアリスの本当に緩く握られた指を、一枚ずつ剥がしていく。
赤子に対してのように優しい手つきだ。
はそれを見下ろしている。
「癖、ですか……」
の言葉は溜息に似ていた。
心の底では彼らの回復を願っているからだ。
この変わらない光景が、いつか、変わって欲しいと。
ヒーラーはアリスの指を外し終える。
「ええ。癖なのよ」
ヒーラーは繰り返した。
すると、またカーテンが開き、その場の二人はそっちへ目を向ける。
大きな影と小さな影がある。
ヒーラーはもう二人の訪問者に、喜びを見せた。
「Mrs.ロングボトムとネビル――何て今日はお客様の多い日なのかしら」
はロングボトム婦人に対し、一礼した。
向こうも柔和に一礼を返す。
ネビルはロングボトム婦人の足に縋りついていた。
そして、じっとを見上げている。
「ネビル! 知らない間に大きくなって……」
思わず言葉を放った。
最後に会った時から、少なくとも一年は経っている。
小さな子供の成長には目を見張るものがある。
ネビルは婦人の足から離れて、とてとてと足を進める。
もそれに合わせてネビルに歩み寄った。
「おねえちゃん、おとうさんとおかあさんのおみまいにきてくれたの?」
「ええ、そうよ」
はネビルと顔の位置を合わせるように、屈んだ。
ネビルは不思議そうだった。
こうして、この病室に他の人がいるのをあまり見たことがなかったからかもしれない。
以前に私と会った記憶は……あるのだろうか?
前の彼は随分幼かったから。
「……」
「どうしたの?」
「だいじょうぶ?」
ネビルはの手を握って、そこから覗く包帯を指す。
それが珍しいようで、両手でごわごわとした手触りをぺたぺた触っている。
小さな手がの手と手首を握っていた。
「いたくない?」
「心配してくれて有り難う。大丈夫よ、痛くないわ」
丁度傷にネビルの指が当たって、ピリリと痛みが走った。
小さな子供は加減を知らない。
しかしは表情を変えず、幼い手つきを見守っている。
「ネビル、そんなに無作法に触ってはいけませんよ」
「大丈夫ですよ、そんなに気を使っていただかなくても」
ネビルは婦人の言葉に、すぐにの手から自分の手を離した。
は笑って婦人に答える。
ネビルの歳で「無作法」だなんて。
は腰を上げて、フランクとアリスを見下ろした。
二人は変わらずに空ろな目つきで、衰えた肢体で、この場にいる三人を見ている。
彼らの息子が目の前にいる。
するとアリスは急にノロノロと動き出し、備え付けの戸棚を開ける。
はそれを凝視した。
其処から何かを取り出すと、彼女はそれをおずおずとネビルに渡そうとする。
ネビルはそれを受け取った。
は目線を其処へ寄せる……こんなこと、今までなかったから。
ネビルの手の平には、ガムの包み紙があった。
「ありがとう、ママ」
ネビルは笑顔を見せる。
不可思議そうな顔をしているに、婦人は言う。
「いつも、こうなんですよ。アリスは、いつもこのガムの包み紙をネビルに渡すんです」
無言でいるに、ヒーラーはにこやかに語りかけた。
「息子だということを分かっているんですよ」
病室から出て、婦人とは飲み物を買ってきて、人の気配のないところで腰掛けた。
ネビルは、病院内を二人の目の届く範囲内でうろうろと探検している。
「あなたが病室に来た時には、何かありましたか?」
「いいえ。今日、驚きました。……私が来た時には何もなかったのに……」
はアイスティーを口に含む。
婦人は、そうですか、と少し項垂れる格好をする。
「しかし、ネビルがあんなに人と喋るのを初めて見ました」
「そうなんですか?」
「ええ、とても内気な子で……あんな風に家の外の人に対して近付くなんて……」
は唇に笑みを作る。
多少は姿を覚えられていたのかもしれない。
ロングボトム婦人は、のカップを持っている手をふいに見下ろした。
「怪我をされたんですか?」
「ええ……ちょっと、油断してしまって」
は苦笑する。
腕から覗いている包帯は、全く珍しいものではない。
「――気をつけて下さい。闇祓いほど危険な職業はありません」
「それが分かっていて、この職業に就きましたから」
婦人はの方を見て、そのさっぱりとした顔を見て肩を落とす。
「あの子も――そうだったのでしょうね」
「ええ、そうだったと思います」
私のフランクとアリスについての記憶によれば、それに間違いなかった。
また婦人は顔を正面へ戻す。
「ネビルがまだ魔法的な素質を見せないんです」
「え……そうなんですか?」
「はい、フランクはもうこの位の歳で、色々とこっちが困るほどにやらかしてくれたというのに」
「え……えっと……」
唐突な話題に、は頬をかく。
婦人の顔は目の前でうろちょろしているネビルへ向けられている。
「そんな、気が焦りすぎですよ。こんなに小さい頃から魔法を発動させる魔法使いは、稀です」
「でもあの子はそうでした」
「それが稀なケースだったんですよ。大抵……十歳位が目安じゃないでしょうか」
「あなたはどうだったんですか?」
「……私も稀なケースでしたね」
「優秀な魔法使いほど、小さい頃から素質を示すと言うではないですか」
「――優秀な魔法使いを、望んでいらっしゃるんですね」
「そう望まない保護者などいません」
は小さく苦笑する。
確かにそれも真実だ。
しかし――はさっき、ネビルが婦人の言葉にすぐに従ったことを思い出した。
「気に焦り過ぎですよ、Mrs.ロングボトム。
私の同僚にも、こんな歳から魔法を使った人はなかなかいません」
「しかし、この子には優秀な血筋が入っているはずです」
「じゃあ安心して、その時を待っていれば良いじゃないですか」
はにこりと微笑んだ。
「幼い時には、それ以上に大切なことが沢山あるはずです」
ロングボトム婦人は黙った。
その黙り方が否定的なものではないのを感じて、は安堵する。
死んだ息子の一人息子に期待が集中するのは当然だろう。
がふと目線を上げると、ネビルが視界の範囲から消えそうな場所を歩いていた。
は急いでアイスティーを飲み干して、カップを置いて、それを追う。
ロングボトム婦人はそれを見送った。
「ストップ!」
は歩いていたネビルの目前に、滑り込んだ。
ネビルは目前にやってきた黒いものに目線を上げる。
「ちょーっと行き過ぎよ。さ、お祖母さまの方へ戻りましょうか」
ネビルは動かずに、じっとを見ている。
は膝を折って、ネビルの小さな頭を撫でる。
小さな瞳がじっとこっちを見つめている。
小さな手と小さな腕がこっちにやってきた。
がそれを受け止める前に、それらはの身体に絡みついた。
は抱きついてきた小さな身体を見下ろす。
幼い身体は暖かく、か弱くて、はネビルの背中に腕を回す。
「……どうしたの?」
返事はなかった。
代わりに、きゅっと強く抱き締められた。
はネビルの背中を撫でる。
其処は渡り廊下だった。
一面の窓からオレンジ色の夕焼けの光が降り注ぐ。
ネビルの身体が光っているように見える。
しかし自分の黒い身体は、変わらない。
はネビルを見下ろした。
表情は分からない。
けれども、必死でこっちに縋っている。
本能的に分かっていた。
恐らく、母性を求められているのだ――
はネビルから目線を上げる。
お祖母さまに育てられてきたのだろうけれど、やはり母親という存在の欠如は如何し難い。
それに、あのお祖母さまの様子では厳しくしつけられてきたようだ。
はネビルの背中を撫で続ける。
自分もそのような歳になったのかという思いもあったけれど、この場合それはどうでも良かった。
胸がゆっくり染みるような思いがして、腕を止めない。
ネビルがゆっくりと腕を外し、顔を上げる。
その顔はおずおずとしたものだった。
は小さく微笑んで、言う。
「さあ、行きましょうか」
背景の色は、オレンジ。
2008/6/22
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