せめて一緒に死ぬ事が出来ていたならそれはどれ程の幸福だっただろう














ヤカンに火をつけ、側の食器棚からカップを取り出す。
十二年間変わらない暮らしを送ることは、特別苦しくもなかったし、特別幸福でもなかった。
惰性で暮らす毎日に嫌気が差すわけでもなく、毎日の中でひたむきに前を見つめているわけでもなく、ただ日々を送っていた。

それに変革が訪れたのはその変わらない毎日のある日で、失業中の時だった。

人狼について魔法省が定めた法律によると、人狼はどんな形であれ就労する時は、人狼だということを提示する義務がある。
リーマス・ルーピンは、自宅の側での就職を頑なに避けていた。
それは、この地域で己が人狼だと宣言するのと同じだ――もっとも、この自宅も魔法省が定めた「人狼が住むべき地域」に相当している。
だから、地域の人は自分がそうであると、感づいているのかもしれない。

就職する際に人狼だと提示する義務を果たさない人狼は、多く存在しているらしい。
そんなことをしたら、まともな就職先が見つからないからだ。
しかし、リーマスはこの義務を破ろうとする気は沸かなかった。
リーマスは生活の僅かな足しを魔法省からもらいながら、短期で自宅から離れた各地で転々と働いていた。

また、リーマスは先日魔法省に用意された「屋敷」に行ってきたばかりだった。
満月の時に用意される、人里から離れた屋敷だ。
最近では脱狼薬という、満月の時でも理性を失わずにいられる薬が発明されたらしい。
しかし、それは精製した鍋から取り出して、数時間経つともう効能はなくなるらしい。
しかも、その材料はとても高価なもので、精製は並みの魔法使いでは行えないと聞いた。

勿論、その夢のような薬を享受することはリーマスには不可能で、毎月その屋敷で狼に変化するのが日常となっていた。
その屋敷には、一人から三人、いつも屋敷の入り口を守っている魔法使いがいる。
誰もが屈強な魔法使いで、彼らは、リーマスがこの屋敷に決められた時間までに来なかった場合、リーマスを何としてでも屋敷へ放り込んで鍵をかける責任を負っている。

話を聞いてみると、彼らは魔法省から派遣された魔法使いで、人狼に特化した訓練を受けた者らしい。
リーマスに毎月ある錠剤――多少、狼化の苦痛を解消するもの――を渡し、朝になって気を失ったリーマスの治療をする。

人狼は、社会に放置すると危険な獣である。
彼らはそれを管理する役割を負っていて、リーマスは生活の多くの部分を魔法省に管理されていた。
それに対してリーマスは特に何も感じることはなく、むしろ、いつも待っていてくれる彼らに感謝の念さえを覚えていた。

あれから、誰とも関わらなかったわけではない。
過去をひどくトラウマに思っているわけではない。
しかし、何故か、リーマスの胸はずっと孤独だという感情に満ち、深く癒されることはなかった。
リーマスは、今の状況の自分の身は幸福でもないし、まさか不幸だと思ってもいなかった。


窓から入ってきたふくろうに代金を支払い、日刊預言者新聞に目を通す。
一面に大きく載っていた記事に目を奪われる。
大々的に取り上げられている記事に目を通すと、リーマスが手にしていた新聞に皺が寄った。

その人は、写真の限られた枠の中でリーマスを威嚇するように暴れていた。
その人の面影はぴったりとリーマスの記憶にある面影と重なり、リーマスは小さく眉を寄せた。
ファーストネームを呼ぶことを心は拒絶したが、口は慣れたようにその言葉を呟いた。


「シリウス――」


アズカバンを脱獄した彼は、どこへ向かっているのだろう?
久し振りに、リーマスの心は底から打ち震えた。
感受性は随分鈍くなったと思っていたのに。





シリウス・ブラックのアズカバンからの脱獄は、リーマスの心をひどく揺らした。
しかし、実際には現実にそのことを感じられるようなことはほとんどなくて、リーマスは変わらず日々を送っていた。
できれば、これ以上何も起きて欲しくはなかった。
そのようなリーマスの思惑とは真逆に、その余波は確かにリーマスの身に降りかかった。

いつものように朝の郵便をふくろうが落としていく。
その中の一つの封筒に、リーマスは気づく。
あまり多くの郵便を受け取ることの少ないリーマスは、珍しい形の封書を手に取る。
その差出人を見て、リーマスは目を見開けた。

アルバス・ダンブルドア。

一時固まったリーマスは、急いでレターカッターを持って来て、封を開けた。
そこには半ば信じられないことが書かれていた。
ダンブルドアの筆跡が綴っていたのは、今期ホグワーツで闇の魔術に対する防衛術の教授になって欲しい、ということだった。

――ありえない。

リーマスが引き受けるはずがないと思っていたのか、ダンブルドアは、このことについては魔法省の許可を取ったと明記していた。
魔法薬学の教授が脱狼薬を作ること、魔法省から派遣された闇祓いがもし何かがあった時に対処する役割を負うこと。
そして、そこには、シリウス・ブラックがハリー・ポッターを狙っているということが、書かれていた。
魔法省から派遣される闇祓いは、ハリーを守るためにホグワーツに滞在するということだ。

リーマスは、かつて見たハリーの姿を思い返した。
小さな赤ん坊だった彼は、ダンブルドアの手によって叔母の家に届けられたらしい。

どうやら、今年のホグワーツは色々と物騒なことになっているらしい――僕たちがいた時ほどではなさそうだが。
リーマスは少し感傷的になってしまった己を奮い立たせるように、苦笑した。
自分の立場をわきまえなければならない。

教師というものは、もっと徳のある人が就かなければならない職業だ。
少なくとも、シリウスと友人関係であった自分が、ホグワーツに行くわけにはいかない。
大前提として、まさか人狼がホグワーツで教師をするわけにはいかない。

リーマスはそう丁寧に返事を書いて返送したが、ダンブルドアは全く懲りずに再度手紙を送ってきた。
遠回しにここでは生活は完全に保障されている――失業しているということは見通されている――など、シリウスとの昔の関係は問題ないなど。
正直、食が保障されていることにはとても心が惹かれたが、そんなことでリーマスの決意は崩れることはなかった。

何度も何度も手紙は交わされた。
両者立場を譲ることはなく、夏も半ば終わりにかかっていた。
その結果、リーマスをようやく動かしたのは、この言葉だった。

――ハリーと会いたくはないかね――。

ジェームズとリリーの残したたった一人の息子だ。










*










昨晩遅くまで荷物をまとめる作業をしていたせいで、ホグワーツ特急に乗り込むと、リーマスはそのまま深く寝入ってしまった。
懐かしい汽車の中で気が緩んでしまったのか、リーマスは深く深く眠る。
それこそ、汽車が止まってもすぐに気づかなかったくらい。

リーマスが目覚めると、目の前は真っ暗だった。
子供たちがざわざわと動き回り、喧騒がない。
非常事態に陥っていることが、寝惚けた頭でもすぐに分かった。


「静かに!」


リーマスは油断なく辺りを見渡した。
ここにいる子供たちも状況が分かっていないらしい。
状況を何とか判断しようと、炎を手の平に翳しながら、コンパートメントの外を窺った。

外にいる者を見た時、どのような状況に陥っているのか、手に取るように分かった。
ドアは外にいる者の手によって、ゆっくりと開いた。

吸魂鬼だ。

それは何かを探すかのように辺りを見回した。
近くにいた子供の一人が、座席からずり落ちた。
リーマスは杖を吸魂鬼に向け、吸魂鬼に歩み寄った。


「シリウス・ブラックをマントの下にかくまっている者は誰もいない。去れ」


吸魂鬼は言葉に応じ、動こうとする気配はなかった。
リーマスは守護霊の呪文を唱え、それを追い払う。

吸魂鬼が、シリウス・ブラックを捕まえるために、ホグワーツに配備されるということは既知だった。
しかし、まさかホグワーツ特急にまでやって来るとは思ってもいなかった。
吸魂鬼を統制することも、今年やって来る闇祓いの仕事なのだと聞いていたが――この特急に乗っているのかは知らなかった。
もしここに乗っているのなら、多少の文句を言っても良いように思う。

それから少し経つと、また車内に灯りが戻り、特急は動き始めた。
紐できつく縛っていた荷物を解き、中から板チョコを取り出す。
まさか、こんなところで役に立つとは思ってもいなかった。

先ほど座席から落ちていた生徒が目を覚ましたのを視界に入れると、リーマスは彼にチョコの一片を渡す。

……ジェームズ。
リーマスは思わずそう口が呟くのをなんとか押し留めて、チョコを食べようとしない「ハリー・ポッター」に、それを食べるように言った。
さり気なくハリーの目を覗く。
それは、赤ん坊の頃から変わらずに、リリーの目、そのものだった。

そして、先ほど、彼があれだけ吸魂鬼に過剰な反応をしたのに合点がいった。

リーマスは他の子供たちにもチョコを配り、汽車の先頭へ向かう。
その間も、胸の中に先ほどのハリーの姿があった。
ジェームズに瓜二つに成長した姿に、とても驚かせられたのだ。















先頭に行く途中、魔女がカートを持って、生徒へチョコレートを渡している姿を見た。
対応がとても早くて的確なことにまた驚かせられる。
正直、この魔女がこのような処置に精通していると思うことは出来なかった。


「すみません、さっきの騒動について――」


運転手席に入った途端、ある魔女と目線がかち合った。
彼女は、羊皮紙に手紙を書きつけていた。

黒髪を肩まで下ろし、真っ黒な瞳が真っ直ぐにこちらを見据えている。
また真っ黒なマントを着込んだ魔女は、全身から利発なオーラを放っていた。
意志の強そうな唇が笑みの形を描いた。


「リーマス・J・ルーピン教授ですね?」


文句の付け所のない微笑を湛えた魔女は、綺麗な発音で流れるようにそう言った。
しかし、その間、とても意思が強そうな眉は、微動だにしなかった。
丸い瞳は全く動かない。


「そうです。……あなたはMs.では?」


という闇祓いの存在は、知っていた。
有名な闇祓いだ。
その彼女が、今年ホグワーツに滞在し、シリウス・ブラック、ハリー、そして吸魂鬼に始まり、リーマス自身についてのことまで担当する。


「私のことをご存知なんですか?」

「勿論。これからお世話になりますから」


闇祓いは、思いの他、可愛らしい表情で苦笑した。
しかし、彼女の持つピンと張り詰めたような空気は、決して緩まない。
彼女は慇懃に、握手を求めるように手を差し伸べた。


「いえ、こちらこそ、これからよろしくお願いします」

「私がそれを頼まなければならない立場なのですが……」


リーマスは彼女の手を握る。
その手は彼女の体格に似合って、小さかった。

彼女はまるで人狼を見るのが初めてかのように、こちらを見上た。
こちらを探るように見る視線は、痒かった。
闇祓いという職業に就いている者さえ、このような視線を向けるものなのだろうか。

そのことについて彼女に問うと、彼女は恐縮したようにあっさりと視線を下げた。


「……それより、吸魂鬼のことです。
 一人、追い払っていただきましたよね? ありがとうございます」


どうしてそんなことが分かるのだろうか。
リーマスは不思議な感覚に襲われたが、同時に、彼女の右肩から下を見た。
先ほどから、不自然に彼女は右腕をこちらに見せまいとしているように見えた。

彼女はダンブルドア校長に向けて、手紙の続きを書き始める。
その内容を目で追いながら、リーマスはあまりマントから出そうとしない彼女の腕を眺める。
手紙をふくろうにつける際、マントがめくれた拍子に、彼女のローブの袖が赤く汚れているのが見えた。

――嗚呼。
リーマスは見慣れた赤い血に、嘆息に似た息を吐く。

ふくろうを空に放し、リーマスはふくろうの行く先を見送るように、空を見上げた。
雲は黒く、淀んでいる。
天気は回復しそうもない。


「君が、吸魂鬼を散らしてくれたんですよね」


彼女は、首を傾げていた。
二人の目がかち合い、少し彼女は気まずそうにしている。


「お礼を言いたいんです。ありがとうございます」

「……いえ」


言葉少なく言った彼女。
リーマスは彼女へ足を進める。
あれを、放置するべきではない。
闇祓いならば、杖腕は生命線であろう。


「でも、Ms.。それは隠すべきではないと思いますが」


彼女は驚いたように眉を寄せて身を引くが、リーマスは強引に右肩のマントを後ろに払う。
そして、赤く汚れた袖を手にして、それをめくり上げた。
そこから、血をたっぷりと吸ってテラテラと光る包帯が現れた。

まさか、ここまでひどいものだとは思っていなかったので、リーマスはますます眉を寄せた。
吸魂鬼のせいだけではない。
元々何らかの呪詛がかかっていたようだ。


「――こんな腕で平気で立っていて」

「……しなくてはいけないこともありましたし、すぐに治療という訳には……」

「このままだったら倒れるよ?」


彼女は少し怯んだ。
どうやら、少し険しい表情をしているらしい。
リーマスは杖を取り出して、少しだけ治療をする。


「ありが――」

「お礼を言う前に、どうして自分でやらなかったんです? 君がそれを出来ないわけがない。
 それにこれはただの傷じゃない、ということ位分かっているはずです。なら、すぐに処置しないとどうなるかは目に見えている」

「……でも私は――」

「でも、も、何もない。すぐにホグワーツに行って治療をしないと」


有無を言わせずに畳みかける。
彼女の行動は、規格外れすぎる。
今でも鋭い痛みは走っているだろうし、これだけ血を垂れ流せば、身体も元気なはずがない。
何度となくこのような傷を経験したリーマスが言うには、間違いなかった。

このようなか細い女の腕にこんな傷は、あまりに痛々し過ぎる。
リーマスは呆れに似た感情を抱き始める。
仕事に熱心なのは感心するところだが、彼女が身体をもう少し省みた方が良い。


「ええ、分かりました。じゃあホグワーツに行って来ます」


彼女は袖を戻し、マントを払う。
あっさりとした彼女の様子に、リーマスは意表を突かれる。


「おかしいですか?」

「そういうわけでは……」

「じゃあそんなに意外そうに見ないで下さい。それと、この後ハリー・ポッターをお願いします」


彼女は黒いフードを目深に被り、左手に杖を持った。
杖――リーマスは反射で少しだけ眉を寄せる。
フードの下の赤い唇の端が上がり、ヒラヒラと彼女は手を振って、姿を晦ました。

……絶対に、ホグワーツに戻っても、治療を受ける気はないだろう。

リーマスはますます呆れる。
彼女の思惑が全く分からない。
複雑に回る心の中を持て余しながら、リーマスはまた先ほどのコンパートメントに戻り始める。


――彼女が、シリウスを捕まえ、ハリーを守り、吸魂鬼を統制するとは――。
できないとは思わないが、彼女は仕事をするためにどれほど身を削るのだろう?

ふと、リーマスは、今まで人狼となった自分を管理してくれてきていた人たちを思い出した。
あの屈強な魔法使いたち……の代わりに、彼女、というわけか。
随分な変わり様である。

二つの影が重なり、リーマスは彼女のあまりに華奢な身体と、あまりに屈強な意思を思い出し、笑いたくなる。
世の中には、面白い人がいるものだ。
習慣となっている作り笑顔ではなく、リーマスは素で笑い出した。


何かが、動き出したような気がする。
脱獄したシリウス、ジェームズとリリーの息子のハリー、シリウスを追う彼女――それに、これからお世話になるセブルス。
それらによって動き出したのは、きっと十二年前から止まっていた僕の意思だ。
僕の人生は幸福でも不幸でもないと思っていた、意思だ。

沢山の人が亡くなった時代を生き延びた、僕の責務をやっと果たすことが出来るのだとすれば、それは一体どのようなものなのだろう――?



























2009/5/4






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