空は曇って鬱々としている。
もうそろそろ夏を感じさせるような時期に近付いていた。
日本と英国の気候は大分違う。
この時期特有のじめじめとした湿気が何よりも心地悪い。
日本での仕事は、もうそろそろ終わろうとしていた。
15/円陣の中で
目の前には、親指大ほどの小さな穴の所々開いた的があった。
ふうと息を吐き、耳当てを側に置く。
隣の的では、違う人がまだ訓練を続けている。
手にしていたものは腰へ差し、隣にいる人に話しかけようとした。
その時、唐突にピリリと身体に痛みが走った。
は、不意にやってきた痛みに違和感を覚えた。
「どうかしましたか?」
その問いに大丈夫だと返事をしようとしたら、また、今度は先ほどよりも強くそこは痛んだ。
すると、そこは肉を刺すように痛み始める。
まだ大丈夫だと思っていたら、それは肉を削ぎとるかのように痛み出した。
耐えられず、はその場にしゃがみ込んだ。
身に着けているマントが床に広がる。
――どうしてこんな所に、こんな痛みが走るんだ――。
の頭は激しく回る。
全く覚えがなく、は膿んでいるかのように痛みの走っている左腕を捲り上げた。
そこは、またもう一枚布で覆われていた。
それをまた捲り上げる。
蛇の巻きついた髑髏と目が合った。
それは、今も生き物のようにの目の前で姿をより濃く滲ませ、うねり動いていた。
は眉を寄せた。
「……刺青?」
その場にいた魔法使いは、不思議そうに呟く。
に似つかわしくない刺青が、確かに左腕に存在しているのだ。
その場にいた一人が、の異常な行動に走ってその場から立ち去って行く。
は周りのそんな様子には目もくれず、そっとその刺青に触れた。
指は刺青のとんでもない熱さを感じ、すぐに引っ込められる。
次の瞬間、火傷をしたかのように腕は痛み、頭が割れるように痛くなり始めた。
歯を食いしばる。
身体を覆っていた靄は消え、現実の世界に身体が晒されたようだった。
忘れていたこと、不思議がっていなかったこと、全てがの目前に並べられた。
胸がずくりと疼く。
眠り続けた後のように呆けた頭に突き刺さる情報は、辛かった。
空白を埋める現実を知り、脳は覚醒する。
全身の血が、焦りと後悔に似た感情で沸き立った。
空白を生む靄は魔法。
いきなり熟した闇の印が、その存在を明らかにする。
のするべきことは一つだった。
身を起こすと同時、は強く目を瞑り、姿を晦ます。
現れたのは、ホグワーツ城の前だった。
「島と大陸を越えて姿を現したか」
そこにいたのは、黒いフードを脱いで風に金髪を任せる魔女だ。
少し、感心したかのように目を見開いている。
その肩には、見慣れた黒い目の白いニーズルが乗っていた。
はその姿でやっと合点がいった。
「……日本で、貴方が手を引いてたのね。ニーズル」
は肩のニーズルの毛を撫でつける。
しかし、ニーズルは人形のように動きはしなかった。
「愛するペットが敵側についていて、驚いたか?」
「――いいえ」
落ち着いているに、は顔を顰める。
もっと、混乱し狼狽する様を期待していたのだ。
「去年、ペティグリューが逃げた事件の騒ぎの時に、ホグワーツの校庭で魔力を持った生き物の白い毛を見つけていたわ。
これで合点がいく。去年、ホグワーツで貴方に私についての情報を渡していたのは、貴方の肩に乗っているニーズルだった」
「ニーズルが犯人であると予想していたと?」
「もし予想していたら、私はニーズルを日本へは連れて行かなかった……」
かすかに眉を顰める。
ニーズルの目は、の姿を微動だにせずじっと捉えていた。
はニーズルを一瞥してから、に対面する。
「ニーズルが私の呪詛の手助けをしてくれ、今までお前を日本に繋ぎとめておくことが出来た。
賢いペットを持っていてくれて助かったよ。まあ、それ以前に――」
意地の悪い微笑を浮かべ、はを嘲笑する。
「勝手に師弟で喧嘩をしてくれて、自ずから日本へ行くことを望み、かつ、騒ぎが起こっても師匠の元へ駆けつけないとは。
随分とお前の気ままな行動に助けられたよ。何という放蕩な弟子であることか」
「アラスターに――何かしたの――?」
「そういきり立つな。何かあった時、駆けつけなかったのはお前自身だろう?」
今すぐにでもの胸ぐらを掴みかかりそうなに対し、はますますそれを助長する言葉を放つ。
の顔は怒りと恥ずかしさと後悔で赤くなっている。
は杖を出し、へ向けた。
は余裕綽々な表情でニヤニヤしている。
この魔女をここまで激昂させたのが、楽しくて堪らないらしい。
綺麗にまんまとこの魔女を罠にはめ、十ヶ月ほどの間、英国から切り離した――プライドの高いはどれだけ苦しんでいるだろう。
「バーテミウス・クラウチが、行方不明なのを知っているか?」
「!? バーティが……」
「どうして、お前の元に都合良く日本魔法省へ行く依頼が来たと思う?」
まさか――。
過去の記憶がフラッシュバックする。
錯乱した様子のバーティ、彼は、私に助けて欲しいと言っていた。
しかし、あの時彼には何の呪詛もかかっていなかったと判断したのに……。
その時、城から歓声が聞こえてきた。
これはきっと三校対抗試合の課題のものだが、の耳には入っていないようだった。
ははっとホグワーツの方を振り向き、無言で何かを考えていた。
しかし、次には、を相手に不敵な笑みで非情に告げる。
「慢心を抱いているようだから言っておくが、もうお前に気付かれず服従の呪文をかける術は会得している。
その方法を会得することは、死喰い人全員に義務化する予定だ」
「――貴方は――!」
は憤怒の形相で杖を振ろうとする。
次の瞬間、は変わらず微笑みながら、へと手を伸ばした。
「さて、今、何が起こっているのか、知りたくはないか?」
「そんなこと――っ!」
はの手の平を握り締めた。
途端、の目前の光景が切り替わった。
は姿の消えたを確認し、ニーズルをひょいと抱え上げる。
「これでご主人の元へは帰れないな」
ニーズルは無言で――元々話すことは出来ないが――ストンと地面に降りた。
そのまま、小さな身体で校門をすり抜け、ホグワーツへ入って行く。
はと違って、ニーズルと意思を介することは出来ない。
しかし、向こうが協力しているのは確かで、意思は伝えられられているようなので、今までこの生物を程々にあてにしていた。
賢く、強大な魔力を持つニーズルだ。
すると、城の方から悲鳴が聞こえてきた。
はそれに唇を緩めたが、実際に城の中で何が起こっているのかは分からない。
こちらは、うまくことを進めることが出来た。
闇の帝王の首尾が滞りなく進んでいることを願う。
*
そこに着いた瞬間、は全身を拘束されたかのような感覚を抱いた。
指を動かす――小さく無言呪文を試す――魔法が発動しない。
手の平から何かが転げ落ちた。
目を下ろす。
水色のビー球が、地面をコロコロと転がっていた……ポートキーを握らされたらしい。
目の前には、墓石があった。
複数の墓石が立ち並んでいる……どうやら墓場のようだった。
ここには、どこか見覚えがある。
は目線を遠くに向けると、遠くに何ヶ月も前に訪れたリドルの館が見えた。
目に焼き付くのは、殺意を抱いてこちらに視線を送っている「死喰い人」たち。
彼らは円陣を描き、を取り囲んでいた。
彼らは鼻息荒く、妙に興奮しているように思えた。
異様な空気の中、は懐かしい姿を確認する。
「ヴォルデモート卿」
彼さえも、ギラギラとした赤い眼差しでを見ていた。
杖を持った腕は、今すぐにでもを取り殺そうとしているようだった。
背中を冷たい汗が流れた。
どうしてヴォルデモートは肉体を持っている?
今まで、肉体を失い、魂のみで彷徨っていたと聞く。
――これが闇の帝王と女帝の企みであったか――。
女帝は、帝王の復活における祝宴の生贄として、私を帝王の下へ送ったのだ。
闇の勢力の再興が目の前に現れている。
これまでのことを、この短い期間の間に成し遂げたというのか?
対抗試合の隙を利用して?
しかしそうすると、彼らは私より先に……。
「・」
感情の抑えた言葉が、ヴォルデモートから発せられた。
は冷静を装いながらも、魔法を御された状況を確認しようと、神経を研ぎ澄ます。
「魔法を封じられた心地はどうだ?」
ヴォルデモートは、の方へ滑るように足を進めた。
の顎を掴み、顔を己の顔へ向けさせるよう上げる。
じわりと冷や汗が背を伝うが、は表情を変えない。
死人のように真っ白な顔、血のように赤い目、蛇のように平らな鼻。
人間らしくない肉体の姿だ……。
それに、変わらず、この人の姿からはとても気持ち悪いものを感じる。
不完全な魂が宿った肉体は、人間であって完全な人間ではない。
「ヴォルデモート卿こそ、肉体を取り戻されたようで」
「ああ。光栄なことにな。お陰様で」
の身体に激痛が迸った。
全身の組織がうねり、は咳き込む。
しかし、その場に座り込む前に、ヴォルデモートの呪文は終わる。
「遜色なく魔法を使えるようになった。……マグルのように無力になった心地はどうだ?」
周りから嘲笑が聞こえる。
は、現実味のないほどの危機的状況に順応しようとする。
「その割には、私の魔力を封じるだなんて、一手間も二手間もかかるようなことをなさっているようで。
遜色なく魔法が使えるのなら、こんなことは無用のはずよ」
口は生意気な皮肉を淡々と語った。
死喰い人の数人がの言葉に怒号を上げたが、ヴォルデモートはそれを抑えた。
「小鳥を捕まえるための罠を何重も張り巡らせるのは、無用なことではあるまい。小鳥は思わぬ隙間から逃げるものだ」
「それで、さっきもまんまと逃げられたのね」
空気が凍り付く。
は細い目で、ヴォルデモートを見上げた。
「貴方が私をまず殺そうとするのは、おかしい。
三校対抗試合という行事から考えても、まず貴方の前に連れて来られたのは、ハリー・ポッターだった。
私がここに来た時、そして今も、貴方は気丈を振舞ってはいるし、死喰い人も何ら変わりなく立っているように見えるけれど、それくらい察知できるわ。
空気が殺伐としているもの。私を殺そうとして」
「――見事な推察だ」
「ヴォルデモート卿にお褒めに預かりまして、嬉しいわ」
ヴォルデモートは苦虫を噛むように言った。
は、素直に微笑んで礼を言う。
辺りを観察する。
過去見知っている者たちが、仮面を被り、ローブを被り、円陣になっていた。
ルシウス・マルフォイ、ワルデン・マクネア、エイブリー、グラッブ、ゴイル、そしてピーター・ぺティグリューの姿まである。
ヴォルデモートはまじまじとの姿を見ていた。
頭の中では、十ヶ月ほど前の、の言葉が思い出されていた。
は、ヴォルデモートの真っ赤な瞳を間近に捉えた。
「最後に訊こうか。死喰い人に加わる気はないか? その魔力は殺すには惜しい」
「ない、と言ったら、すぐに殺すつもりでしょう?」
「そうだ」
ヴォルデモートは、杖を利き手に握り締めた。
顔には残酷な喜びが満ちている。
人差し指で、握っている杖をトントンと叩く。
ハリーを殺せなかった分の憂さ晴らしをしたいようだ。
は一息吐いて、言う。
「私は、死喰い人に加わる気はないわ」
そう言いながら、はマントの中に腕を突っ込み、そこにある冷たいものに触れた。
ヴォルデモートが杖を振ろうとするのを視界の端に捉えながら、は冷たいものを引き出し両手で持って、その先を側に立っているヴォルデモートの身体に押し付ける。
そのまま、引き金を引いた。
パン!
の身体が反動で反る。
この場に不似合いの乾いた音が立ち、ヴォルデモートは動きを止める。
不思議そうに己の身体を見下ろす。
赤い血で、新しいローブは黒ずんでいた。
はまたそれを両手に構え、ヴォルデモートの杖腕に向けて、引き金を引く。
反動での身体がまた反り返った。
腕に穴が開いた。
「馬鹿にしてたマグルの武器も、捨てたものじゃないでしょ?」
ヴォルデモートは血を流す腕をもう片方の手で支え、不可解なものを見るような目で、まだ己の身体を見下ろしている。
は、拳銃を持ったまま駆け出した。
ヴォデモートはやっと正気に戻り、吼える。
「逃がすな!」
は、その瞬間一斉に呪文の総攻撃に合う。
四方八方から飛んでくる閃光を、神に祈りながら、身体が勝手に動くままに走り抜ける。
日本魔法省で、マグルの杖こと「拳銃」の狙撃訓練室にいた時、闇の印は熱くなっていた。
日本魔法省はマグルの文化を柔軟に取り入れていた。
初めて拳銃というものを体験していた時のそのままでここに来てしまい、はマグルの武器を携えていた。
何という幸運だろうか。
しかし、付け焼刃でヴォルデモートは打つことが出来たものの、走りながら動く的を打ち抜くことなど不可能だ。
両手で持たないと引き金を引くことさえ出来ないのに。
はまた幸運にも、幾多の閃光を潜り抜けることができていた。
そして、円陣のその場でおろおろしているグラッブの鳩尾に、思い切り拳を入れる。
円陣の輪を破り、その中を脱出した。
後ろでヴォルデモートが何か吼えているが、何を言っているのかは聞こえない。
ヴォルデモート自らがこっちにやって来ないところを見ると、私はどうやら致命的な場所を打ち抜いていたようだ。
やはり、この上なく運に恵まれている。
目の前に死喰い人の姿が現れた。
こちらに杖を構えている。
は杖の先をじっと見つめ、今使える唯一の武器を両手に持った。
威嚇するように構える。
は引き金を引かずに、拳銃は威嚇のためだけに用いて、死喰い人を潜り抜けることができた。
死喰い人は、先程彼らのボスに致命傷をくらわせたマグルの武器を、恐ろしく感じているらしい。
背後からの魔法にも注意を払うが、向こうも動く的に魔法を命中させるのは難しいようだ。
魔法は辺りにちらばっている墓石にガンガンと当たり、石を砕いていた。
すると、目の前に、道を塞ぐように大蛇の姿が現れた。
はそこで足を留める。
の側に、一人の死喰い人が現れた。
「ルシウス、ちょっとごめん」
は杖を持つ彼の肩に手を回し、盾にするようにルシウスを構えた。
すぐさま魔法がやって来る方向を見極め、盾ことルシウスをそちらへ向ける。
ルシウスは、の奇抜な行動に対応し切れなかった。
の目の前の人は、崩れ落ちた。
途端に、全身の痺れていた感覚は消え失せ、手元に魔法の感覚が戻る。
は拳銃を仕舞い、杖を構えた。
この中で私にこのような術をかけるとすれば、ヴォルデモートかルシウスだ――の予想は大当たりだった。
それにしても、やはり十数年振りに会合する死喰い人たちは、チームワークが良くない。
は一発大蛇に失神の呪文を唱え、やって来る閃光を弾く。
粗方さばききれたと思ったら、は姿を晦まそうとした。
しかし、その瞬間、遠くから物凄い速さで呪いが飛んで来る……遠くで、ヴォルデモートが杖を振るっていた。
呪いの衝撃を浴びながら、は姿を晦ました。
自分の意識がなくならないこと、その閃光が緑色でなかったことを確認して、その呪いが死の呪文ではないことを判断しながら。
2009/3/13
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