16/大切な人
身体とマントが勢いよく床を擦る。
衝撃のそのままに、は床に寝た状態で地面を滑り、止まった。
止まったところで身体を起こす。
裸の手は擦り切れ血が滲み、身体が痛んだが、は少し眉を顰めるだけで終わった。
呪いの衝撃でどこかへ飛ばされたらしい。
呪いの余波で右半身が痺れているのを揉み、は辺りを見渡した。
ホグワーツのどこかの廊下だ。
本来ならば姿現しなどできないはず……ヴォルデモートの呪文の効果が何かしら反応したのか?
の感覚が、人の気配を捉える。
今はくしくも三校対抗試合の最中で、中に人はいないはずなのに、この近くに二人の人の気配があった。
去年覚えたこの城の地理を思い出す。
二人の人の気配は、闇の魔術に対する防衛術の教授の私室にあった。
は先ほどのの言葉、そして、そこにいる者の不穏な気配に気付き、駆け出す。
――アラスター――!
一人の人物は、ハリー・ポッターだと推察出来た。
しかし、そこにあるもう一人の気配は、過去に覚えた忌まわしい記憶が取り巻く者の気配だった。
まさか……どうして……!?
十年ほど前の記憶がフラッシュバックする。
激昂し、ムーディに従うことなく、初めて一人で感情に任せて追った人物。
暗い屋敷でベラトリックス・レストランジの側にいた、若者。
アリスとフランクを拷問した人物……バーティの政治的失墜の原因の彼の息子……。
は、目の前に現れた扉を、ほとんど蹴破るかのようにして大破した。
アラスター・ムーディの姿とハリー・ポッターの姿が見えた。
は杖を手に持ち、部屋の中へ踏み入る。
ムーディは、杖を手に持ち、ハリーの側へ立っていた。
「……?」
ムーディは、唐突に目の前に現れた人物に、驚いて目を見開けた。
はそれを鼻で笑った。
「私と貴方は、愛称で呼び合うほど親密だったかしら?」
声は尖り、冷たく、情け容赦がない。
ブーツが音を立て、はただムーディの方へ近寄って行く。
目にはハリーの姿が入っていないようだ。
は、ムーディだけをじっと見つめ、口元は奇妙な卑下の嘲笑が見て取れた。
ムーディはわけが分からなさそうに、へ問う。
「どういう意味だ? 久し振りに会った師匠に、随分とつれないな」
「そのままの意味よ。猿芝居が私に通用すると思って?」
ハリーは師弟二人の異様な光景を、ただ見つめていることしか出来ない。
の言葉の意味が分からない。
敵鏡の中に、もやもやとした影が現れ始めている。
はマントの中で腕を組み、ムーディを目を細めて見上げる。
「久し振りね。十年振りくらいかしら? もう私は、貴方と会うことはないと思っていのだけれど」
「だから、それは何の話だ?」
の言葉の響きには、ありありと嫌悪が含まれていた。
言葉と視線の雰囲気とは正反対の奇妙な笑みが、の顔に広がる。
「ふざけた真似はもう止めましょうか。その姿でいられるのは不快で、堪らないわ――バーテミウス・クラウチ」
沈黙があった。
しかし、すぐにムーディは笑い始める。
「何のことを言っているのだか。ついに気が狂ったか? 」
「だから、その芝居を止めなさい」
はムーディに杖を向ける。
胸に向けられた杖に、ムーディは初めて表情を曇らせた。
固い表情で杖を見て、そのままの表情でを見る。
すると、口調を変えた。
若々しい言葉がムーディの口から出てくる。
「……そうか、お前相手にはこれは通用しないか。ダンブルドアさえ騙せた代物だったのに」
「私を見くびっているの? アラスターと貴方では、魂の色が違い過ぎるわ」
「「ムーディ」を信奉しているお前を騙すまでは至らなかったらしい」
クラウチJr.は乾いた笑い声を上げた。
はクラウチJr.を強く睨みつけ、杖をより彼へ寄せ付ける。
「――久し振りね、クラウチJr.」
「・。お前を殺すことを、この十数年間、どれだけ願っていたことか」
敵鏡の中のシルエットがはっきりとしてくる。
黒いマントがそこに見えた。
の目はこの世で最も憎い魂を捉え、殺意で爛々と光っていた。
「どうして貴方がここにいるのかは、分からないわ。アズカバンからどうやって逃げたのか、分からない」
そして、クラウチJr.はアズカバンで死亡したと報じられていた。
「だから、今度は逃げることが出来ないように、殺してあげる」
瞬時にクラウチJr.の杖が呪いを吐く。
はそれを見切っていたかのように防御し、また呪文を唱えた。
その呪文は壁の薬瓶を焼き、はまた呪文を唱える。
クラウチJr.はそれを防御する。
一瞬の隙に、はクラウチJr.の元に近付いて、その身体を地面に組み敷いた。
その腰に乗って、杖を喉元に当てる。
クラウチJr.の杖は、無声呪文によっての手の平にやって来た。
は敵鏡に映っている姿に気付いた。
ハリーもその姿を見上げる。
そこにいたのは、今よりも随分と若い、の姿だった。
は嘲笑する。
「今でも、貴方を捕まえた当時の私のことを恐れているの?」
クラウチJr.は黙った。
はその身体の上に乗りながら、クラウチJr.を上から見下ろした。
すると、クラウチJr.はを見上げてこちらも嘲笑を見せた。
「しかし、大した弟子だな。勝手にムーディと喧嘩をし、師匠の安否を気遣うことをせず、闇の帝王の計画を円滑に進ませてくれた。
お前の愚かさにどれほど感謝しただろう」
「……黙れ」
は喉から搾り出したような声を出した。
「闇の帝王も、お前の存在を大きく危険分子だと評価していたが、実際のお前はただの小物だったな。
今まで一年間ずっと、英国のことを気にすることさえしなかったのだろう?」
「黙れ!」
は唇を噛む。
心の中の最も弱いところを突かれ、胸が酷く痛んだ。
そんな様子のに、さらにクラウチJr.は畳みかける。
「父も、お前にコンタクトを取りたがっていた。それなのに、お前は父の期待を裏切り、英国に父を捨て置いた……。
父もお前を過大評価していたようだ。このことをお前に話せば、どうにかしてくれるとでも思っていたのか」
喉に当てられた杖が火花を散らし、クラウチJr.は言葉を止めた。
はこの世で一番憎い男を見下ろし、杖を爪が手の平が刺さるほどに握り締めた。
「……アラスターに何をしたの?」
「何を? 何を、とは? 言うなら、一年間服従の呪文で拘束し、過去の記憶と毛髪を提供していただいた、というところだが」
目を怒らせるに対し、クラウチJr.はまだ皮肉を唱える。
「師匠が襲われた夜に駆けつけなかった弟子が怒るのは、道理にそぐわないな」
「――貴方は――」
の顔はほとんど泣きそうな状態だった。
胸に穴が開いたのかと思うような痛みが体中を駆け巡り、胸には己に対する空虚感と不甲斐なさに満ちていた。
クラウチJr.はそのようなの態度が、楽しくて堪らない。
縮む喉から何とか声を絞り出す。
「貴方は、どうして、私の大切な人ばかりを――……」
「……ああ、ロングボトム夫妻のことか?」
クラウチJr.は嫌らしい笑いを見せた。
楽しい思い出を思い出しているようだった。
今にも涙を零しそうなの思いつめた顔、声、痛いほどの憎しみがこちらに降りかかっているのが分かる。
「あの夫妻、噂の割にはてこずらなかったな。妻の方は、やめてくれ、と夫との呪文の間に入り、倒れた。
闇祓いならもっとすべき方法があっただろうに。それに、老いぼれたムーディも、容易く傀儡することが出来た。何てことはない」
クラウチJr.の狂気に魅入られた笑い声が響く。
「黙れ。それ以上、喋るな」
また杖が火花を吹き、クラウチJr.は黙る。
「もう良い。これで十分――」
「俺を殺すのか?」
「ええ」
クラウチJr.は、に会ってからずっと笑みを浮かべている。
今もそうだ。
が激昂するのが楽しい。
父が頼った女が、涙を流そうとするのが、感情を乱すのが、楽しい。
それが、以前己を捕まえた憎い女であることが、ますますクラウチJr.の享楽を増す。
「ムーディの姿をした俺を、殺すことが出来るか?」
クラウチJr.は自信を持った笑みでを迎える。
しかし、次の瞬間、は冷めた視線と同時に残酷な嬉々とした笑みをもち、クラウチJr.を見下ろした。
「ええ」
杖を手に持ち、振り下ろす。
クラウチJr.がそれをはっきりと知覚する前に、杖が死の呪文を吹く前に、その場にいたもう一人の魔法使いが声を上げた。
「やめて!」
の手が止まる。
そして、顔だけがハリー・ポッターへ向けられた。
ハリーはこの光景を前に、ただ首を横に振っていた。
目の前で、ヴォルデモートがセドリックを殺したように、がこの男を殺そうとする。
反射で出た言葉だった。
表情のないハリーを見て、はまだ杖をクラウチJr.へ向けながら、口を開く。
その言葉はナイフのように鋭かった。
「貴方は、両親を殺され、その恨みでヴォルデモートを憎んでいるのでしょう? ハリー・ポッター?
目の前で無防備な闇の帝王がいたら、その人を殺したいと願うほどに。
そんな貴方が、私がこの男を殺すことを止められるわけがない」
ハリーは黙った。
が吐いたのが、思わぬ言葉だったからだ。
今の彼女はハリーが知っている彼女より、はるかに冷酷で、はるかに冷たく現実を見据えていた。
まるで別人のようだった。
今までの彼女は仮面であったのか、今の彼女の様子はどちらかというと――死喰い人に似ているように、ハリーには感じられた。
「自分だけが特別だと思っているの、ハリー・ポッター?
貴方が闇の帝王を殺すのは、闇の帝王がこの学校の生徒の誰かを殺すのと同じ。
正統な理由で闇の帝王に復讐したい、彼を殺したいと願っているのだと自負しているようだけれど、人の命を奪うのに正しいも間違いもない」
ふと、ハリーに笑みを見せた。
そこには狂気に似たものが見えた。
「この人に、私は三人分の恨みがあるの。みんな死んではいないけれどね。
だから貴方より恨みの程度が低いとは、言わせないわ。
死ぬことより辛いことが、この世には存在する……いっそのこと、死なせてあげたら良いのに、って思うことが。
――ハリー、私を止めることが出来る? 貴方をあしらうことなんて、私にとっては容易いわ」
ハリーが口を開ける前に、は杖を振り下ろす。
の唇が呪文の最後の一言を紡ごうとした――。
「この男には、訊かなければならないことがたくさんある。まだ殺すわけにはいかない。
――、こういう理由で納得してはもらえんか?」
は細めた目を上げた。
が以前破った扉から、魔法使いが三人この部屋に入って来ていた。
「ダンブルドア校長」
「君の気持ちはよく分かる。しかし、どうかその杖を彼から退けてもらえんか」
は眼下にいる人物を見下げた。
彼は、ムーディの姿をした彼は、狂ったようにまだ笑みを見せていた。
の胸では、理性と感情が複雑な渦を巻く。
は杖を強く握り締めてから、ゆるく杖を振った。
ゆるい失神呪文にかかったクラウチJr.は、表情筋をゆるませ、眠ったかのようにその場に力なく転がった。
じっとその姿を見てから、は彼の上から退き、立ち上がった。
「ありがとう、」
ダンブルドアは本当にそう思っているかのように、心のこもった言葉を吐いた。
ダンブルドアと一緒にやって来たマクゴナガル先生が、ハリーへ医務室へ一緒に行くように囁いたが、ダンブルドアはそれを止めた。
ダンブルドアは、クラウチJr.のローブの中から鍵束と携帯酒瓶を取り出した。
そして、マクゴナガル先生と、共にこの部屋に来ていたセブルスへ振り返った。
「セブルス、君の持っている真実薬の中で一番強力なのを持ってきてくれぬか。
それから厨房へ行き、ウィンキーという屋敷妖精を連れてくるよう。
ミネルバ、ハグリッドの小屋に行ってくださらんか。大きな黒い犬がかぼちゃ畑にいるはずじゃ。
犬をわしの部屋に連れて行き、まもなくわしも行くからとその犬に伝え、それからここに戻ってくるのじゃ」
セブルスとマクゴナガル先生は指示に従い、すぐさま部屋から出て行った。
「、君は――」
「ここにいさせて下さい」
「わしもそう言おうと思っておったよ」
は、ダンブルドアが持っていた勝手の知った鍵束を受け取り、トランクの前で跪いてトランクを開け始める。
の顔は、ダンブルドアがやって来てから無表情で固い。
ひどく冷静であるようにも見える。
しかし、トランクの中にムーディの姿が現れた時、その顔は耐え難い苦痛にあたかも耐えているかのように歪んだ。
そして、の口は何かの言葉を吐き出したいと思っているかのように開いた。
しかし放つべき言葉をは知らかったし、それを探そうともしていなかった。
がトランクの縁を越えその中に入ると同時、ダンブルドアもその中へ入った。
そこは地下室のような場所だった。
ムーディは痩せ衰え、魔法の目も義足もない状態で失神させられていた。
はその隣に腰を下ろす。
胸から込み上がる吐き気に似た感情を何とか堪え、マントを脱いで、その姿にかけた。
ほとんど一年振りに会う師匠の姿――。
「失神術じゃな」
「服従の呪文も、です」
はダンブルドアの目をじっと見た。
「非常に弱っておる。しかし、急を要するようには見えぬ。……、どうするかね?」
「……先に、上の「ムーディ」の方を片付けましょう」
師匠なら、こう言うに決まっている。
生死に関わりがないのならば、先にするべきことを片付けるべきだ。
心にひたすらに浮かんでいる思いとは真逆の考えであったが、は屈託なくダンブルドアへそう述べた。
意思のあるの目にダンブルドアは頷く。
は簡単な身体を温める呪文をムーディにかける。
ここは地上より寒かった。
はムーディの身体を浮かし、一緒にトランクの外へ出た。
そして、はムーディの身体をその部屋のベッドに寝かせに行く。
ダンブルドアから離れ、は初めてかすかに眉を寄せた。
ベッドに寝たムーディの姿を食い入るように見つめ、その手にそっと触れると、はまたダンブルドアの所へ戻って行く。
戻って行った所にいたのは、まさしく「バーテミウス・クラウチJr.」だった。
色白の薄茶色の髪をした青年が、眠っているかのように横たわっていた。
はその場に落ちていた義足と魔法の目を拾い集めた。
ポリジュース薬の効能から逃れた彼には、以前が捕まえた彼の姿の面影がありありと残っていた。
そして、彼の父親の面影もかすかに見える。
「クラウチ! バーティ・クラウチ!」
「なんてことでしょう」
戻って来たセブルスとマクゴナガル先生が、床にいる男を見て声を上げた。
セブルスの足元にいる屋敷しもべ妖精は、金切り声を上げてクラウチJr.の胸に縋った。
セブルスが持ってきた真実薬を、ダンブルドアはクラウチJr.の口に流し込んだ。
そして、ダンブルドアはクラウチJr.に蘇生呪文を唱えた。
クラウチJr.は壁に背もたれし、ぼんやりと目を開けた。
「聞こえるかね?」
クラウチJr.は瞬きをし、答えた。
「はい」
彼はダンブルドアに促され、アズカバンに捕らえられた時から我が身に起こったことを、躊躇いなく話し出した。
彼の忠実な屋敷しもべ妖精がそれを止めようとするのを、耳にも入れず。
クラウチの手により、クラウチJr.は十数年もの間ずっと家で密かに管理されていた。
アズカバンで死んだのは、余命幾ばくもない息子を哀れに思ったクラウチの奥方だったのだ。
そのことを知っていたのは、クラウチ家の者以外では、バーサ・ジョーキンズだけだった。
バーサ・ジョーキンズはヴォルデモートに拷問され、三校対抗試合、クィディッチワールドカップ、そしてムーディが今年教職に就くことなどを吐露した。
クラウチJr.はワールドカップ会場で闇の印を上げた……そして・に対面した。
ヴォルデモートはと共に、クラウチの家を訪れた。
クラウチは服従の呪文にかけられ、クラウチJr.は晴れて自由の身となり、ムーディの姿に成りすましホグワーツに滞在した。
しかし、クラウチは服従の呪文に抵抗し、逃げ出した。
「俺はクラムに失神術をかけ、父を殺した」
屋敷しもべ妖精が叫び声を上げた。
は表情のないクラウチJr.の顔を見つめ、小さく拳を握った。
「俺は夕食前に、優勝杯を迷路に運び込む仕事を買って出た。
俺はそれをポートキーに変えた。ご主人様の計画はうまくいった。あのお方は権力の座に戻ったのだ。
そして俺は、他の魔法使いが夢見る事も適わぬ栄誉を、あのお方から与えられるだろう」
クラウチJr.は狂気の笑みを顔に輝かせた。
真実薬を飲まされてから、初めて表情に感情が戻った。
ゆるんでいた表情が締まり、焦点の合わなかった目が光を取り戻し、爛々とを見上げる。
「見たか? ・。
ワールドカップ会場で会った時に、お前をどれだけ殺してやりたいと思ったか。
・により忘却呪文をかけられたお前は、覚えてはいないだろうがな」
は何も答えない。
しかし、クラウチJr.は喜々として言葉を続ける。
「今度は、俺がお前をまんまと騙してやった。お前の負けだ――俺のことが憎いか?」
は目を伏せる。
「ええ」
ケラケラと大声を上げて、クラウチJr.は笑う。
狂気めいた目のまま、息が荒くなるまで、彼は笑い続けた。
「貴方はこの一年間、誰よりも素晴らしく狡猾だった。でも、それもこれで終わりだわ。
変わらず、貴方は詰めが甘い。……アズカバンに戻るのね」
目の前のアルバス・ダンブルドアが見えないクラウチJr.。
「ご主人様」が完璧に計画を遂行できなかったことを知らない、クラウチJr.。
彼は私にひどく執心していたようだった。
私が彼に抱いている感情と、同等に、いや、それ以上に。
はその姿をこれ以上見ていることができず、彼に背を向けた。
クラウチJr.の嘲笑が背に降りかかる。
しかし、振り返ることはしなかった。
はムーディの元へと戻り、その姿を見下ろして、俯いて目を閉じた。
2009/3/17
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