08/わからないことばかり














人狼は集団で生活をしている。
概して町外れの小さな家や洞窟、またはそれに順ずる建物に住んでいる。

は空を見上げた。
晴天だ。
暗いと、夜目の効く向こうの方に分がある。

真昼間に、小さな家の周りに魔法使いが静かに集まっていた。
対人狼に特化した魔法使いたちに加え、闇祓いが二人そこにいる。


「家の周りにかかっている呪詛は、全て解けたようです」


が低く呟いた。


「それでは、作戦通りに各員配置」


じっと真剣な目で家を見つめているの隣にいるフランクが、また低く呟いた。
その声でゆっくりと音を立てないように魔法使い達は散っていく。


「牙だけには気をつけろ」


また低く言う。
狼に変化していない人狼達は全くをもって普通の魔法使いだが、ただ噛み付かれるとまずいことになる。
何らかの人狼的な症状が身体に表れることは、間違いない。

は腕につけているドラゴンの皮の盾をきつく締め直した。
そして足も同様に直し、胴につけているものも手触りで確認する。

フランクは時計を見ていた。


「三、ニ、一……」


一斉に姿を晦ませる。
次にが見たものは、暗く埃っぽい部屋だった。

途端にフランクは駆け出す。
もそれについて行こうとするが、案の定目の前に男の魔法使い――人狼だ――が立ちはだかった。
予想していた通りだ。

は杖を振り、魔法使いを吹き飛ばす。
すると背後から気配が近付き、は腕を盾にして人狼の牙を受け止めた。
ガン、と鈍い音が立つ。
片手で人狼をあしらいながら、また向かって来た人狼へもう片方の腕の盾を向ける。

余程、私に噛み付きたいようだ。

私以外はこの場にいるのは男ばかり。
男の肉より女の肉の方が良いのだろう。

自分が標的になっているのは明らかで、は人狼の鳩尾へ蹴りを入れた。
次にやって来る人狼をひらりとかわして、自由になった杖で魔法を放って失神させる。

今まで腕に噛み付いていた人狼が牙を外し、こっちへ向かってくる。
すんでの所ではそれを避けたが、肩を押されて床へ引き倒される。

が魔法を放つと、人狼は意識を失って、その身体がの上に乗りかかった。
重みで肺から空気が逃げる。
重い身体を退けて身体を起こすと、首元に杖が当たっていた。

下手をした。

が何かを考える前に、杖から魔法が放たれて、は身体を動かせなくなった。
しかし目は見える。
このまま噛み付かれるのかと思っていたが、そのまま身体はずるずると汚い床に引き摺られていく。

周りも混戦状況で、に構ってくれるような人はいなかった。


引きずられて何処に行くのかと思っていたら、トイレに連れ込まれる。
掃除されていないのは明らかで、小さなハエが飛んでいた。

は便座の上へ座らされる。
そこで人狼は黒いフードを取った。

その人狼は、英国にいる全ての人狼の中で一番有名だった。

フェンリール・グレイバック――フランクがまず捕らえようとしていた彼が、そこにいた。

は口を動かせず、座っていた。
ただ、呼吸や瞬きは可能なようだから、生理作用まで奪われたのではないらしいことは分かっていた。
殺すつもりはないらしい。


「勇ましい女だねえ。人狼たちの住処へのり込むだなんて」


女だからって何が悪い。


、闇祓いか。まあ、とにかく……」


グレイバックはがずっと手に握っていた杖を取り外して、自らのポケットへ入れた。
の手は空を掴んでいる。


「……他の者は……まだ、戦って……るのにっ……良いご身分ね」


の言葉にグレイバックは驚いた。


「もう口が利けるとは、大したもんだ。名前はだてじゃあなかったんだな」


は強張る口をぎこちなく開いて、舌足らずに述べる。
しかし指はまだピクリとも動かないし、目も一点を見つめたきりだ。
が喋れずにいるのを見て、グレイバックは口を開く。


「見ただろう? こちら側の優勢だ。俺は楽しく闇祓いを拷問させてもらうよ」

「ヴォルデモート、卿は……いなくな、った。貴方が……私から……聞き出すべ、き、こと……は、あまりない」

「いやいや、闇の帝王がいなくなったとしても、そちら側の動向は興味のあることだ」


グレイバックはにやりと微笑んで低く言う。


「それに、女子供をいたぶるのは俺の趣味だ」


がどんな答えを返してくるものか、グレイバックは待っていた。
はゆっくりと口を開く。


「私が、それで、怯える……とでも、思った?」


グレイバックは爆笑した。
この女、肝が据わっている。
ヴォルデモート卿がこの女を贔屓していたと風の噂で聞いていたが、こんな女だったとは。

は僅かに目線を上げる。
少し目が自由に動くようになってきた。


「すまん、冗談だ。俺は客人は丁重にもてなす主義だ。安心しろ」


ならば、この魔法を早く解いたらどうだ。
動けないに対して、グレイバックはのんきに言う。


「殺しはしないよ」


はグレイバックの見えない所で、指を動かし始めていた。
この調子で動かせていけたら、何とかなる。

グレイバックは杖を取り出してに向けたが、ふと何かに気付いたかのように杖を下げた。
そしての肩を掴み、そして顔を掴んで持ち上げる。
荒れた皮膚が頬に刺さる。


「……女か……」


さっき自分で女だ、って言っていたじゃないか。
グレイバックは何かを考える風にして、から手を外した。

そしてローブからごそごそと何かを取り出す。
黄色い爪で摘んでいるのは、小瓶だ。
蓋を開けて、の口を開けてそれを喉へ流し込む。

は逆らう方法を持っていなかった。
その液体はとても熱い。
舌でその薬品を特定しようとする。

グレイバックは中身のなくなった小瓶を地面に投げ捨て、を観察し始めた。


「よく、そんな、薬……携帯してるわね」

「誤解するなよ、本当にたまたまだ」

「せめて、薄めて欲しかったわ」

「その言い方なら、成分が分かったようだな。身体に変化が起こったか?」

「舌触りと……芳香で分かる」

「かしこい女だなぁ」


は自分を見つめるグレイバックの目を見る。


「俺はあんたにそういう興味はないが、他の仲間達はどんな女でも良いらしい。
 それに、さっきの様子ではあんたを気に入っていたようだから――」

「確かに、気に入られてた、みたい」

「女が足りないんだ。許せよ。俺だって、したくてこうしているんじゃないんだ」


は動悸を増してきた心臓を感じ、熱くなってきた身体を感じていた。
呼吸が早くなっている。
文献で読んだのと同じだ。
ただし、あれは原液を大量に飲んだ場合の症状じゃなかったけれど。

この類の薬品に対する抵抗も身体に身につけていたはずだが、ここまで大量に摂取するとあまり効き目はない。


「催淫剤の味はどうだ?」

「……甘い……」


ドクドクと心臓が大きく鳴る。
荒い呼吸によって肩が上下する。
こんな感じは生まれて初めてだった。

グレイバックは頬に赤みを増してきたを観察し、もしこの魔法を解いたらどうなるだろう、と思った。
……いや、それは止めておこう。
この女には蹴り倒されるような気がする。

少しずつ魔法の効果が薄れてきたようで、は眉を寄せている。
表情が少し動かせるようになったらしい。


「辛いか?」

「私に興味がないんじゃ、なかったの?」

「ああ。だから薬の効き目の参考程度だ」

「これだけの時間で、心拍数がこんなに上がるなんて、大した薬だわ」


グレイバックはまた笑った。


「面白いな、お前」

「どうも」


グレイバックはまたふと思い出したかのように、の身体の装備を確認し始めた。
身体に触れられる刺激に、は耐える。
腕につけられていた盾と、太腿のもう一本の杖を容易に外される。


「って、あんた、胴にまでドラゴンの皮の盾を?」

「内臓が、一番大事だから」

「そりゃもっともだ」


グレイバックはそう言って、控え目にのローブの腹の辺りを裂いた。
そして胴を覆っていたカバーを外し、そこに他に何も装備されていないことを確認して、から手を外した。

その頃には魔法の効果は大分薄れていて、は僅かに身じろぐ。

熱い。
身体の中が疼いている。
まさか、こんな衝動を薬で味わうことになるなんて。

は苦笑する。
グレイバックはのその表情を見て、訳が分からないと思いを巡らせる。

は諦めずに動かしていた指が、完全とはいえないものの動きを取り戻しているのを確認する。
身体も、動かそうと思えば――動く。

は決起して立ち上がった。

途端に杖がの手の中に戻って来る。
油断し切っていたグレイバックが驚いて杖を取るも、はそれを奪った。

が放った失神光線を避け、グレイバックはに掴みかかろうとするが、は無駄のない動作で平然と急所を蹴り上げる。
グレイバックが呻いた。
そしてそのままはグレイバックを蹴り倒す。

杖を突きつける。
すると、グレイバックはを敵意のこもった目つきで睨み上げ、かき消えた。
姿を晦ましたのだ。


はそれを確認すると、その場にぺたりと座り込んだ。
何とか杖を腰に戻し、息を荒げる。
早く撤退してくれて良かった。

薬が本格的に効いてきたようだった。
まずいな。
身体がひどく敏感になっている。

頭がぐらぐら揺れている。
ああ、実際に私、こういう感じを味わったことが今までないから……。

は唇を噛み締める。
爪で手の平を刺す。
こうでもしないと、どうにかなってしまいそうで。

扉が開いた。
魔法省の魔法使いが一人、の姿を見て驚いて近づいてくる。

は肩にかけられそうになった手を、無意識に払い除けた。
そして正気に戻って顔を上げる。


「……ごめんなさい。それと……あの薬の成分を、調べてもらえないかしら……?」


が指差した先には、割れたガラスにトロリとした液体が絡み付いていた。















「催淫剤を盛られた、と。解毒剤はどうした?」

「今精製中らしい。どうもかなり濃いやつを大量に摂取したみたいで、保存していたものではあまり効かないらしいんだ」


ムーディは顔を顰めた。


「……それで、はどうしている?」

「ずっとシャワールームで水を浴びてるわ」


アリスが言う。
こんな大掛かりなことになってしまったら、きっとこの噂は広がるだろう。


「フランク、あなたが早くグレイバックを捕らえていたら……」

「分かってるよ」


フランクの声はらしくなく、硬い。
アリスはそれで、これ以上言及するのを止めた。

かわいそうな子――アリスは心の中で思った。
あの様子ではおそらく今まで何の経験もなかっただろうに、薬でそんな衝動に突き動かされるなんて。


「フランクさん、警察部隊の人が来てますけど……」


そんな話をしている最中に割って入ってきたウィルに、全員が一斉に口を噤んだ。
ウィルは訳が分からなさそうに用件を述べる。


「どうも催淫剤に対する解毒薬らしいんですが、何ですかこれ?」


彼には噂が届いていなかったらしい。
三人は顔を見合わせた。
アリスが最初に顔をウィルへ向けて、言う。


「あなたが届けてもらえない?」

「アリス、待て。それは――」

「アラスターは黙ってて」

「黙っていられるか」

「黙ってて、って言ってるでしょ?」


声が恐ろしく鋭くムーディへ向けられる。
ムーディはそれで言葉に詰まる。


「それって、俺が催淫剤を盛られた人にこれを届けるってことですか?」

「そうよ。頼めるかしら」

「アリス! いい加減にしろ!」

「いい加減にするのはあなたの方よ」


胸がざわつき吼えるムーディへ、アリスの冷たい目が突き刺さった。
声が落ち着いている分だけ殺気が増す。


「あの噂は本当だったの? あなたがに恋情をもよおしている、っていう」

「そんな馬鹿なこと――」

「じゃあ、どうして駄目なのよ? あの子はあなたの何? 所有物じゃないでしょ?」

「……」

「あなたもそれを望んでいたって思っていたのに。もう清算は終わっていたと思っていたんだけど」


アリスは腕を組む。
この男は、弟子が真っ当な心を持つことを望んでいたはずだ。
ねじくれた心がほどけるのを、望んでいたはずだ。


「あの子ももう大人なのよ」


ムーディは押し黙った。
何か言いたいことがあるのだろうか、口は動こうとしたが、途中でそれは止まった。


「……あの〜、お取り込み中すみませんが……」


のん気な声が割り入った。
ウィルが頭をかきかき、片手に握った瓶を上に上げる。


「これを俺がに届けたんで、良いんですね?」


今までの会話で概要は理解した。

のん気な声と対象に、ウィルは鋭い目つきをムーディへ向けた。
ムーディはそれを受け止めて、どうにでもしたらどうだ、とでもいう風に顔を背けた。
もう彼とは以前に話し合い、大体の清算はついている。

遠慮する必要はない。

ウィルがシャワールームへ歩み出す背後を、ムーディは何とも言えない顔で見送った。
アリスさえいなかったら、今にでもウィルを止めたそう顔だった。









*










コンコン


「もしもし、誰かいますか?」


女用のシャワールームの扉を叩く。
するとドタドタと音が聞こえて、足音が遠ざかって、ガタンと大きな音がした。
それから音はなくなった。


以外、だれかいますかー?」


返事は、ない。
ウィルは遠慮せずに中に踏み入る。
脱衣所に荒っぽく脱ぎ捨てられているの服を見送り、靴のまま奥へ足を進める。

歩く度に水音がピチョピチョと立つ。
ただ一つ閉まっている個室の前で、ウィルは口を開いた。


「解毒剤持って来たけど」

「ここは女用よ!」

「だって頼まれたんだよ」


は壁一つで区切られた個室の中で、羞恥で顔を真っ赤にさせていた。
先ほど取ってきたタオルを身体に巻く。

つい前まで脱衣所にいたのだが、ノックに驚いてこの中へ入ってきたのだ。
少し足を動かす度に、足元で水音が立った。

まだ収まらない荒い呼吸に耐えられなくなる。
音が響くシャワールームの中、こんなの耐え切れない。
はタオルを口に当てた。


「災難だったな」

「……早く、薬を頂戴」

「じゃあ、開けてくれ」

「……下の隙間から……」

「薬のカップが大きくて無理なんだ。それに、上からだったら零れるかもしれないだろ。
 零れたら、またが苦しまなくちゃならなくなる――何とかかき集めた材料でこれらしいから」


沈黙の時間が合った。
しかし観念したように、ゆっくりと個室の扉が開く。
そこから控え目にの手が差し出された。

ウィルはその手に薬を渡す。


「……っあ」


少し触れた手にすらは身体を反応させて、息を大きく吸う音と共に声帯を震わせた。
それで揺れたカップをウィルが支える。
の手にウィルの手が大きく触れることになる。


「い、や、やめてっ!」


震える腕を掴む。


「いや、他意はないよ、本当に中身が零れそうなんだって!」

「触らないで!」


の声に従わずに、ウィルはの腕を掴み続けた。
だって外すとすぐにカップの中身がなくなってしまう。


「落ち着いて……」

「おち、つくって……もうっ……」


の手が緩んでカップをウィルが受け取った。
の手が下へ落ちて行く。
立っていられなくなったらしい。
水音が立って、は地面に座り込んだようだった。

下の隙間からは微かに白いタオルが見えて、ウィルは安堵した。
どうやら完全に全裸ではなかったらしい。

またの息が荒くなる。


「……ごめん、なさい……醜態を晒して……」

「……そんなことはないよ」

「そんなことはない、で、済まされないわ……」


ウィルはの水で濡れた白い手を見た。
それに手を触れると、はそれを必死で振り払おうとする。


「こんなに冷えたら身体に毒だ」


それだけ言って、ウィルは手を離す。
そして床にコトリとカップを置いた。

は手探りでそれを探し、持つとすぐに中へ手を引っ込めた。
がそれを飲み下す音が聞こえる。
全てを飲むと、はまたそれを床へ置いた。


「すぐには効かないだろうな」


ウィルはカップを床から退けずに、一枚の壁へ語りかける。


「……大丈夫か?」

「大丈、夫。後は放っておいて」

「それで良いのか?」

「――私のことを考えてくれるのなら、そうして欲しい」


ウィルは黙って立っていた。


「……辛いだろう?」

「辛くない、って言い切ることが、今の私に出来ないことは自覚してる」

「あんたは辛いけど大丈夫だと言うのか?」

「耐えることには慣れてるから――お願い、ここから出て行って」

「……そこでは冷えるぞ」

「私は全然冷えてない」


いつまで冷たいシャワーを浴びても。
身体の外側は冷えるけど、内側は熱いままだ。

の声が震えだして来た。
ずっといつもの声を装ってきていたようだったけど、この辺りでそうも出来なくなってきたらしい。


「貴方も――私が女だからって、扱いを変えるのね」


震えた声のままは言う。


「女だから、馬鹿にされた。慰み者にされかけた。そんなのもう真っ平」


の手が床に強く叩きつけられた。


「その挙句こんな醜態を貴方に晒すなんて――」


もう一度、手が床に叩きつけられる。
肉がひしゃげる音がする。
扉の下から赤いものが流れてきた。


、止めて」

「……っ」


の手が止まる。
一枚の壁がじれったい。
ハアハアと呼吸を荒げる音が木霊する。


「……こうでもしないと、正気を保てそうにないの。貴方がいたら、ますます辛くなる。お願いだから、私を放っておいて」

「……

「何?」

の意思に背いても良いか?」

「――駄目」

「あんたのことを考えて、こう言っているんだ」

「駄目よ」

「ごめん」


扉の取っ手をひねって、ウィルは扉を開けた。
は驚いて身体にタオルを巻きつけて、後ろへ下がって距離を取ろうとしたかったけど、身体が立ち上がらない。

ウィルはそこで初めて、の手の平が爪で傷付けられているのに気付いた。
身体にも自分で傷をつけたような跡が残っていて、赤く肌を染めている。

ウィルはの後姿を見ている。
腰の辺りまでタオルが身体を覆っていた。
その背中は微かに震えている。


「見ないでっ」


は顔を伏せて身体を丸めている。
肩は上下していて、皮膚は血とは別にほんのり赤く染まっていた。


「……熱いんだろう?」

「私のことは、放っておいて」

、それは……強がりだ」


ウィルがの肩に触れると、ビクリと肩が上下して嬌声じみた声が上がった。
は必死になって手で口を塞ぐ。
ウィルは心を決めて言う。


を楽にしてあげたい」

「……駄目、駄目、本当に駄目……」

「俺のことが嫌いか?」

「嫌いじゃ、ない。けど、だから……」


もう片方の手をの肩に寄せる。
くぐもった嬌声が上がる。

さっきから心臓が、身体が、頭が、全てが狂ってる。
気がおかしくなりそうだ。

熱い、苦しい、辛い。
欲望が膨らむ。
心の声は、今私が言っていることと違うことを叫んでいる。
なんて卑猥な女なんだ。

理性が崩れかけてきている。

しかし一つ、どうしても譲れないことがある。


「だから、やめて」

「どうして?」

「これは、私じゃない――」


は口を覆っている手すら落とした。
僅かにウィルの方へ振り返る。


「これは私じゃないの。だから……抱かないで」


唇も歯で切っていたようで、唇の端から僅かに血が流れ落ちていた。
頬には涙が伝っている。


「私に正気でいさせて」


ウィルは無言で扉を閉めた。
の荒い息だけが響いている。


「俺はこれで立ち去るけど、一つ二つ、言っておきたいことがある」


ウィルは扉へ背を向ける。


「一つ目、はこの状況を醜態と言っていたが、そうはとらない男がいるということも覚えておいて欲しい」


から返事はなかった。


「二つ目、堪えきれないほど無理をするな」


それだけ言い残して、ウィルは立ち去った。
己の非力さを思い知りながら。
結局、何もしてやることは出来ないことは、ここに来る前から決まっていたようだった。

は床に座り込みながら今の言葉を反芻する。
そうしながらも、ほんの少しの刺激で反応する身体を恨めしく思い、は自分の身体を抱え込んだ。

目を瞑る。

薬が効くまで、もう少し耐えれば良い。















本部に戻ってきたウィルをアリスは見て、それが思ったより早かったと思う。
いや、それとも……。


「ムーディさん」


ムーディは気だるげにウィルを見る。
ウィルは小さく苦笑していた。


「あんたの弟子は、大したもんだよ」

「……どういう意味だ?」

「大丈夫、あんたの恐れていたことにはなってない。……は、俺も意気地がねぇなあ……」

「――本当に意気地がないな」

「ちょっと、まさか、あんたにそんなことを言われるとは……」

「男が廃るぞ」

「待ってくれ、あんた、と俺について否定的だったんじゃなかったか?」

「あの娘の意見を尊重してくれたのだろう?」


何もかも分かっているかのような目が、ウィルを見つめている。
ウィルはただそれに見透かされるしかない。


「何、あの娘に関しては大体のことは予想出来る。……そのことについては、感謝する」

「……もし俺が押し切っていたら?」

「見損なっていたな」


ウィルは立ち尽くしていた。
この師匠殿はどこまで把握しているんだ?
どうやら、自分は危ない橋を知らない間に渡りきっていたらしい。


「無駄にプライドの高い娘だろう? どんな状況でもな」

「おっしゃるとおりで……」


ムーディは鼻を鳴らした。
ウィルはやっぱりこの男には適わないのかと思って、息を吐いた。
そしてふと視線をのいるだろう方向へ向け、の様子を思い出した。


「……本当に放っておいて良かったんだろうか……」

「薬は渡したのだろう?」

「ああ、渡した」

「ならば大丈夫だ」


そう言ってさっさと仕事を始めるムーディに、ウィルは眉を寄せて畳み掛ける。


「どうして断言できるんだ?」

「大丈夫じゃなかったらどうなると思っている?」

「……それは……体調を壊すとか……身体に傷が残るとか……」

「傷?」

「自分で自分の身体に痛みを与えていたらしい」

「そんなにひどいものではあるまい」


あんたにとってはそうだろうけど!
ウィルはとてもそう突っ込みたかったが、ぐっと堪えた。


「それに、あの娘は恐ろしいほど丈夫だからその点は心配しなくて良い」

「よく断言が出来る……」

「ああ、断言出来るとも。お前が体験しているより激しい戦争を、は経験してきた。お前に心配されるなぞ、にとっては心外だ」


ムーディはぐじぐじ言い続ける彼に、溜息を吐いて言う。


「そんなに心配なら、抱いて来たらどうだ」

「いや、そんなにあっさりと……って、え? 抱いてきたら見損なうってさっき自分で……」

「ああ、見損なう」

「じゃあどうして……」


ムーディは羽ペンを置いて、腕を組む。
じっとウィルを見つめながら、低く唸る。


「さっきわしがアリスに叱られた通りだ。あの娘ももう大人だ。わしの意見は関係ない」

「――とか言いながら、内心はまだ保護欲に満ち溢れて――」

「黙れ」


ウィルに本心を言い当てられたようで、ムーディはピシャリとウィルの意見を却下した。
そしてウィルは初めて気付く。
自分とムーディは少し似通っているところがある。


「……分かった、俺もやっぱりを信じることにする」


ムーディは片眉を上げる。


「彼女が大丈夫だと言っているんだから、大丈夫だろう」

「わしとお前を同列に並べるような言い方はやめろ」

「本心はそうなんじゃないの?」

「どうしてお前相手に本心を喋らねばならない?」

「いーよ、別に俺が勝手に想像してるだけだから」


ウィルはにっと微笑んで、小さく頭を下げて立ち去った。
ムーディはその後姿を凝視していたが、肩を落としてまた仕事へ戻ろうとしたが、意識があまりそっちへ向かわない。

羽ペンをインク壷に戻して、深く息を吐いた。










*










着替え、扉を開けると、そこには彼が立っていた。
まさかこの男、ずっとここで待って……?


「もう大丈夫なのか?」

「ええ、薬が効いたみたいなんだけど……」


はもう何もなかったかのような顔をしていた。
しかし、少しだけ苦笑している。
ウィルが何やら心配そうな目で、こっちをじろじろ眺めてくるのだ。

が歩き始め、ウィルもその後について歩き出す。


「あの……その、精神的にも大丈夫なのか?」


珍しく言葉を濁すウィルに、は少し驚いた。
くるりとウィルへ振り返ると、やっぱり彼は心配そうに私を見ていてくれている。
は足を止め、ふと微笑む。


「大丈夫。もう、ルシウス・マルフォイにあんな説教を二度とくらいたくはないし」


立ち止まったウィルの目をじっと見上げる。


「貴方は、絶対にあんなことしない……わよね?」


はそれだけ言い切ると、少し恥ずかしげに視線を下ろした。
無意識に拳を握る。

ウィルはの思いがけない嬉しい言葉に、素直に嬉しそうにした。
そのまま素直に言葉を述べる。


「大切にしてあげますよ、お姫様」


はあとずさった。
気味の悪いようなものを見るように目を見開いて、ウィルから距離を取る。


「こう言って欲しいんじゃないの?」

「この馬鹿! そんな台詞……!」


狼狽しているは、挙動不審だった。
うーっとウィルを睨み付けたかと思うと、頬を染めて地面を見つめ始める。


「じゃあ、その質問にどう答えて欲しいの?」

「そ、それは……」

「ねえ、どう答えて欲しかったの?」


は頭を振って、歩き出した。
ウィルは真っ黒なマントの後を追う。
ブーツがコツコツと後味の良い音を出している。


「じゃ、さっきの答えで良いってこと?」

「だから……馬鹿! 違う言い方があるでしょ!」

「じゃあ内容自体はあれで良かったんだ」


そのような問答を続けて、二人で本部へ戻った。

変わらず、元気そうなが救いだった。
シャワールームのの言葉から、このことがきっかけでまた前までのように拒絶されたらどうしようか、と思っていたのだ。
しかし、彼女は、もうそう拒絶することは止めたらしい。



























2009/1/17






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