重く沈んだ意識の中から、ぼんやりと浮き上がる。
しかし未だに身体が重い。
真っ暗な瞼の裏から、色鮮やかな世界が零れる。
誰かの声がしている。
は自分で目を開ける努力をする。
この空気の匂いは、間違いなく、あの病院だ。
早く目を覚まさなくては。
そうしていると、わりかし正確に働いていた聴覚が、何かを掴んだ。
03/Alastor Moody
1981年11月1日。
聖マンゴ魔法疾患障害病院、五階、呪文性損傷集中治療室。
「「例のあの人」が消えた!」
え?
「生き残った男の子、ハリー・ポッター万歳!」
ハリー・ポッター……?
ポッター家の者か?
ここ数年も感じたことのなかった活気が、閉じられたこの病室まで漏れ広がっているようだった。
気のせいか空気が暖かく、いつも感じていたピリピリとしたものを感じられない。
まさか――まさか――。
は目を見開いた。
「ゴドリックの谷で、「例のあの人」が消えた!」
側にいたヒーラーが、目を開いたの元へ寄って来る。
ヒーラーも笑みを絶やすことなく、妙に幸せなオーラを纏っている。
顔が気色に溢れているのだ。
「Ms.? ? 目が覚めましたか? 「例のあの人」が倒れたんです!」
は見開いた目のまま、若いヒーラーを見る。
若い女性は、どうにかしてにこの幸せを分け与えたいようだった。
しかし対してはキョトンとしていた。
「」
顔を知っているヒーラーが其処にいて、はやっと現実を見つめることが出来た。
彼はいつものように涼しげな顔で銀縁の眼鏡をかけていた。
「君が此処に着てから、二日経ってます。その間に魔法界は大きく動いた」
「……」
は何かを言おうとしたが、言葉が出なかった。
その代わり、はそれを行動で示した。
身体を起こすと、至る所にピリリとした感覚が走った。
ぐっと腕に力を入れてベッドから身を起こす。
その間に、身体に取り付けてあった器具を無詠唱で取り払った。
そして手を伸ばすと、その手に彼女の杖が握られ、服装がいつものものへ変わる。
は杖を握ってベッドから滑り降りる。
「ゴドリックの谷、ですか?」
「そうですけれど、君はどうするつもりですか?」
は応えず、病室の外へ向かおうとする。
さっきの女性のヒーラーが驚き、それを止めようとの前へ立ちはだかる。
「、どうする気――」
スポン、と女性のヒーラーの手から杖が抜けた。
男性のヒーラーは言う。
「こんな時じゃなかったら、もうちょっと人を増やして君が出て行くのを止めようとしたんですけれど。皆浮かれちゃって」
が治療途中で病院を脱走しようとすることは、この病院では知れ渡っていた。
「貴方は止めないんですか?」
動かない男性のヒーラーへ、は尋ねる。
縛ってあった髪の毛はいつの間にか解かれ、額に巻かれた包帯へ垂れている。
不精をして切らなかった髪の毛は、背中の中ほどまで伸びていた。
の姿は、完全に彼女本来の黒いものだった。
「止めたって無駄でしょうし」
肩をすくめて言う。
彼は無駄なことはやらない主義だ。
は一瞬唇を尖らせて、ぎゅっと杖を握り直した。
そして、を見過ごすことしかできない女性のヒーラーの側を潜り抜けて、は病室を抜け出した。
*
長い黒髪と長いマントを靡かせて若い女性がこっちにやって来るのを、その場にいた魔法警察部隊の一人が見咎めた。
このような人に見覚えはない。
其処に建っている家は、一番上の階の右側が吹き飛ばされている以外、至って普通の家だった。
整えられた生垣に、整えられた花壇……それは今も美しい花を咲かせていた。
この場にいるのは、闇祓いと魔法警察部隊、特殊部隊と、魔法省大臣を含んだ高官である。
やって来た素性の知れない女性を、魔法警察部隊の一人は引き止めようとする。
彼の役目はこの場の警備だった。
しかし、その女性のなりを見て、ぎょっとした。
頭に巻かれた包帯、首筋に巻かれた包帯、見た目に傷ついている頬……。
その女性は眉を寄せて、彼を見上げる。
彼は、黒い髪を持ったその女性の顔の造作が整ったものであるのを見る。
やはり、こんな人に見覚えはない。
女性はゴソゴソとマントを探り、何かを取り出して、彼の目の前に出した。
「闇祓いの・です」
「こ、これは失礼……」
身分証をマントに片付け、女性は頷いて、彼の横を通り過ぎた。
彼は驚いてその後姿を見つめた。
ムーディと含めて、闇の帝王が台頭していた時代の英雄じゃないか。
彼は彼女の記事が載っていた新聞を思い出す。
そして、彼の中にある、彼女と省内で対面した記憶も……。
ああ、髪を下ろしているのだ。
だから随分と印象が異なっているのだ。
今まで女か男かよく分からない身なりをしていたから。
あの強気な表情と口調は、確かに彼女のものだ。
彼はの容姿に意外なものを覚えて、腕を組んだ。
ちゃんと見たらなかなか可愛らしいじゃないか。
「ムーディさん!」
その場にいた人々は、その声のした方向へ振り向いた。
呼ばれた本人もそっちへ振り向く。
そして、呼んだ人が自分の弟子であることを認識する。
ムーディは、スタスタとに背を向け歩き始めた。
「ちょっ……」
つれない反応に、は焦ってムーディの後を付いて行こうとする。
ムーディをああして呼ぶのは、彼の弟子だけだ。
見慣れない容姿の人物に対し、その場にいた人々は疑問を抱く。
あれが彼女か?
は見慣れた背中を目指して駆け出す。
ピリリと身体が痛んだ。
「ムーディさんっ」
は大股で黒いマントを翻すその姿に、必死で付いて行く。
元来の体格差があるのだ。
「……怒ってるんですか?」
傷付いた身体を引き摺り、幾ら付いて行ってもムーディは止まってくれないことを判断する。
そしてこの身体では、この状態では、彼にどうしても辿り着けない。
は手の平を握り締める。
「こんな身体を引きずってきたことを――」
「それだけだと思うか?」
「……スネイプにこてんぱんにやられたこととか……」
ムーディは立ち止まった。
はやっと、何とかムーディの元へ辿り着くことが出来る。
はじっとムーディを見上げて、彼の目を捉える。
ますますは手を握り締めた。
ムーディは仏頂面だ。
「お前を此処へ呼んだ覚えはない」
確かにそれは真実だ。
でも……!
「己が役に立てると思っているのなら、それはおごりだ。病院へ戻れ、。邪魔だ」
頭上から降ってきた威嚇し低く唸るような言葉は、無情にに降りかかった。
ムーディの傷だらけの顔にある黒い双眼は、同様にを見下ろしている。
一拍の間を取って、は変わらずにじっとそれを見据えながら言った。
「嫌です」
はっきりと発音された言葉は、容易にムーディの耳へ届く。
ムーディは明様に顔を顰めた。
「……お前はもう少し聡いと思っていたが?」
「現状、闇祓いの多くがこの場に集結しています。私が此処に来る権利がないとは言わせません」
いつの間にか、はこの場を把握していた。
ムーディは益々顔を歪める。
「もっとも、それは、貴方が私のことを「闇祓い」だと認めているという仮定の下でしか成り立ちませんが」
「分かっているじゃないか」
ムーディは小さく溜息を吐く。
「では、立ち去れ」
目の前の爛々と輝く黒い目を相手にして、ムーディはまた無情に言い放つ。
は目の色を変えない。
「……私は、此処でやりたいことがあります。私の能力でヴォルデモートの行方を……」
「話題をすり変えるな」
は唇を噛む。
「ほんの数年で何もかも知ったつもりか?」
ムーディの言葉には、弟子に対する苛立ちが入っていた。
その苛立ちがじわりじわりとへ滲み出しているようだ。
ムーディはに背を向ける。
「知りたいから――」
の言葉は強い意志を持っていた。
ムーディを立ち止まらせるほどの。
ムーディは立ち止まったまま、へ後ろ向きに目を向ける。
「知りたいから、此処に来たんです」
「そんな理由で我が侭が通ると思っているのか?」
「駄目ですか?」
「駄目だ」
は少しむすっとした表情を作る。
そして、間髪入れず、感情の篭った言葉を吐く。
「私は、いつまでもムーディさんの腰巾着は嫌なんです!」
ムーディはの方へ振り向き、マントの中で腕を組む。
「ならば自身で努力しろ。わしの手を煩わせるな!」
「煩わせるなんて言ってないです!」
一瞬の間が空いた。
は荒げた息を整えていたが、ムーディはほとんど睨み付けるかのようにを見ていた。
はこの頃、いや、ずっと前からそう思っていた言葉を吐き出す。
「私は――私自身のことは、それがどんな結果になろうとも、自分自身で始末をつけます。
私はムーディさんが思っているほど子供じゃないし、これでも貴方の側に数年間ずっと付いて来た!
この頃ではもう一人で任務を行うこともある――」
「だから?」
「――私はずっと貴方の弟子でいる気はないんです!」
その言葉にはの思いが隠喩されていた。
ムーディはそれを感じ取って、無表情で目を下げる。
ムーディは眼下の少女を見つめた。
未だその姿は小さく、幼い。
被保護されるべきものに見える。
しかし、その目は、表情は、それにあるまじき強さがある。
その一瞬、がとても大人びたものに見えた……。
ムーディはそれを振り払うかのように、歩き始めた。
はそれにあくまでも付いて行く。
付いて行く……。
ムーディはそれを分かっていたが、実力行使でを振り払おうとすることはなかった。
ムーディの足は、その家の中へ向いていた。
もそれに続いて行く。
ムーディは門を開いた。
門は軋んだ音を立てる。
家の敷居を跨ぎ、二人は家の中へ進む。
「……此処ですね。此処で――」
玄関ホールに立つと、はそう呟いた。
ムーディがを見下ろすと、は蒼褪めた顔で口元を押さえていた。
「ジェームズ・ポッター」
「此処で、ヴォルデモートはジェームズ・ポッターを殺した」
傷が意味もなく痛む。
しかしは、自分がかけているネックレスを外した。
全身に、人の殺意が渦巻く、特有のものが感じられる。
頭が痛い、とても気持ち悪い。
この身体を刺されるような潰されるような痛みと気持ち悪さは、ヴォルデモートに由来するものだと知っていた。
他ではこのようにはならない。
は何かに呼ばれているように、足を進める。
二階へ上る。
ムーディはの足つきを見ながら、それに付いて行く。
その方向に間違いはなかった。
二階に上り、はある部屋へ迷う様子もなく歩き続ける。
その部屋の入り口には椅子や箱が散らばっていた。
そしてその奥にはベビーベッドが置かれている。
は壁に凭れかかるように、体重を預けた。
彼女は座り込みたいのだろう。
「……気持ち、悪い……」
ムーディは次のの言葉を待った。
「ヴォルデモートの魂が、今も其処にあるようで……。
彼の魂は此処でバラバラになった。ハリー・ポッター……の、母親――」
「リリー・ポッターだ」
「リリー・ポッターがハリー・ポッターを守った。だから、ヴォルデモートは、ハリー・ポッターを殺せなかった」
は口元を覆う手を強めた。
冷や汗が額を流れている。
息をするのさえ辛そうで、喉がヒュウヒュウと音を立てている。
「ヴォルデモートは、自らの放った魔法で――魂を壊され――」
「、もう良い」
ムーディはの肩を掴む。
しかし、は応えない。
「ヴォルデモートは、魔法の法則の底をいじっている、だから……彼はそれでも死なずに……」
「もう良い!」
の上下する肩を強く掴む。
これ以上深入りする必要はない。
これ以上、そんなおぞましいことを知る必要はない。
もうこれ以上何も掴まなくて良い。
ムーディはの手に握られているネックレスを奪い、の首へかけた。
そしての腕を掴み、部屋から出て行く。
階段を下りる辺りで、はムーディの手を振り払う。
そしてそのままの足取りで外へと向かう。
はムーディより一足先に門から出た。
そして、冷たい風に吹かれる。
その瞬間、は口元を押さえて走り、家から離れ、人がいない草むらでしゃがみ込んだ。
ムーディは、ある程度時間が経ってからの元へ歩み寄った。
はやはりまだ蒼褪めた顔をしていたが、先ほどよりかはまだ顔色が良い。
ムーディは座り込んでいるの背中をゆっくりと撫でる。
はそれに敏感に反応した。
傷に触ったのだろうか。
「すみません、気配が微弱過ぎて、追うことはできない……」
「そうか」
は目を拭った。
まだ荒い息のまま、は乱れた髪をかき上げた。
そしてまた、は座り込んだまま、目をポッター家の方へ向ける。
「、もう良い」
しかし、は止めない。
「止めろ」
ムーディはの覚束ない肩を掴む。
の肩はそれでぐらりと揺れた。
の目は、草の地面へ向いた。
「……貴方に早く認められたいんです」
は細い息で言った。
ムーディはそれで眉を寄せる。
「私は、貴方に拾ってもらって、今まで面倒を診てもらった。
その恩を返したい。それは本当に返し切れるものなのかは分からないけれど……。
そのためには、ムーディさんに早く認めてもらって、また、もし可能ならば、対等に見てもらえるようになりたいんです。
そして――ムーディさんを守りたいんです」
ムーディは眼下の少女を見つめた。
その時、辺りがざわついた。
二人は敏感にそれに気付く。
同時にざわつきの中心へ目を向けた。
二人へ向かって、一人の魔法使いが駆け寄ってくる。
「シリウス・ブラックが! マグルの道路でマグルを虐殺し、魔法使いを一人殺したらしい!」
シリウス・ブラック?
はその人物を、ただのブラック家の長男としてしか認識していない。
しかしムーディは、その言葉で表情を深刻にした。
憎しみが見える。
「私も……」
「駄目だ。来るな」
「魔力検知器代わりになります」
「お前は機械じゃない。自分の姿を見ろ。傷だらけで酷い有様だ」
「傷なら、もうとっくについてます!」
は立ち上がった。
そう言う彼女は、額に包帯を巻き、首周りにも治療途中の跡がある。
そして、今までの彼女を行動を知っている者として、そのマントの下に多くの傷があることを知っている。
しかし、また改めて見る彼女は幼く、小さく見えた。
「それに、此処以上に酷い現場はありえません」
しかし、その表情は幼いものではない。
そして、険しい顔をしているムーディを真摯にじっと見上げる目は、いつの間にか大人びたものとなっていた。
そういえば、彼女はジェームズ・ポッターやシリウス・ブラックらとそれほど歳は変わらなかった。
「――行くぞ、」
は目を見開いた。
「初めてファーストネームを――!」
顔色を明るくするをぐいっと捕まえ、ムーディはもう一度低く問う。
「後悔はしないな?」
「……はい」
は傷付いている顔でにっこり微笑んだ。
彼女の長い黒髪が肩で揺れて、白い包帯にそれが映えていた。
が微笑んだのを見て、ムーディはのん気なものだと溜息を吐く。
はじっと自分の身体に神経を集める。
痛い、痛いけれど、首もとの包帯に手を当てると、少しだけ湿った感覚がしている。
チラリと見た指の先は赤く染まっていた。
まだ大丈夫だ。
は表情を引き締める。
二人は同時に姿を晦ました。
2008/8/20
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