おかしい。
は目の前の脱獄犯を余す所なく見据えながら、思った。
闇の匂いがしない。
目の前の男は余りにも実直で、今の状況に動く事も出来ず、何も出来ない。
これなら寧ろ、スネイプの方がプンプンとその匂いが漂って来る。
それに今のこの姿の彼は、今まで私が多く出会って来た死喰い人達の姿と、全く被らない。
アズカバンのせい、と一口でそれは言い切れるものなのか。
以前アズカバンに行った時、他の死喰い人達を見て、そのような印象は全く持てなかったのだが。
いや、それは元より。
直感が何かが「違う」と告げるのだ。
13/Halloween 中
は今静かに興奮していた。
あの脱獄犯を目の前に、今にも彼を捕まえようとしているのだ。
違和感もそこそこに、は杖を突きつける事を止めようとはしなかった。
それもこれも、捕まえた後だ。
「もう、アズカバンから出さないわ。私は貴方の手筈は分かったもの」
声の響きは死の宣告に似ていた。
はにやりと微笑み、犬へと変化する能力を持つ男を細めた目で凝視する。
満月に照らされた森の端。
ブラックはの様子を、眉を寄せながらじっと、見ている。
好機を窺っているようだ。
はそれを見透かしていた。
しかしこんな所で時間を取っている猶予もないので、さっさと終わらせてしまおうと、杖を動かし、最後の審を下そうとした。
あまりに呆気ないこの男に、柄もなく油断していたのだ。
ブラックが素早く、の杖を持った腕を引っ掴む。
は咄嗟に魔法を唱えたが、ブラックはその閃光をするりと避けた。
そして腕を強く握り締め、男の力でを跳ね飛ばす。
は今まで対面した事のない戦闘の仕方に、そのまま木の幹へぶつかった。
「くっ……!」
は身体を起こし、闇夜に視界を確かにしようと目を凝らす。
月の光りが、目の前の大きな犬を照らしていた。
が杖を構えると同時、犬が地を蹴り、牙を剥き出し飛び掛る。
「Stupefy! ……ぐっ……!?」
「ギャウンッ!」
二つの影が重なった後、は顔を強く顰めて、ブラックは全身で震え出す。
ブラックは、力なく地面に落ちた。
そしても右腕を庇うように、強く掴む。
の放った失神光線はブラックに命中していた。
そしてブラックは、の杖腕に噛み付いたのだ。
痺れ出した腕から、指先から、鉄の臭気を帯びたトロリとした液体が滴る。
震えだした腕を使い物にならないと判断し、は杖を左腕に持ち換えた。
はまるで痛みを感じていないかのような表情で、前と変わらず、ブラックを視界に捉えようとする。
目線を上げると、目前に動物の荒い息があった。
身体の前に衝撃を受ける。
そしてそのまま重心が後ろに流れ、目の前が真っ暗になった。
身体を伝わる衝撃で右腕に痛みが走り、咄嗟の反応が取れない。
「っは……!」
地面に押し倒されると同時、肺から空気が吐き出される。
しなって地面に叩きつけられた右腕が痛みを訴えている。
身体が痛みの振動を持って、全身にそれを響かせる。
目を見開くと視界は掠れ、暗い。
背中には硬い地面がある。
犬の唾液が顔に掛かり、今にも食われそうになっている様子を眺めた。
は数秒も経たない内に、無言呪文で犬を飛ばし、左手で身体を勢いよく起こした。
脳が点滅するのを無視し、動きのギクシャクしている犬を目に留める。
途切れなく右腕が悲鳴を上げていた。
完全に治癒していなかった傷が開き、以前の呪詛が体を蝕む。
まさか、私が右腕に魔法的疾患を負っているだなんて、知らないだろうに。
其処を噛み付かれるだなんて。
いや、でもまだ――大丈夫。
犬がまた飛び掛ってくる。
それがまさに右腕を狙っているようだったのが気に留まったが、は右腕を逸らし、左腕を差す。
「Lacarnum Inflamarae!」
赤い炎が黒い犬を包む。
炎に包まれた犬が、の足元に転がる。
しかし不意打ちに、犬はの右足に噛み付いた。
も地面に崩れる。
プチプチと嫌な音が噛み付かれた箇所からして、眉間の皺を深くする。
膝を地面に着き、使える左手と左足で身体を支える。
ブラックは炎に包まれていて、其処はほのかに明るい。
は息を荒げながら、耳はブラックの様子を探っていた。
じたばたと炎を消すよう、地面を転がっている。
の腕と足からは血が滴り、地面を汚している。
平衡感覚の狂った身体が、もはや立ち上がることが出来ない事を感じていた。
頭がクラクラ回り、視界が薄れていっている。
せめて、せめて視界だけでももって。
しかし全身は冷や汗を垂らし、震えて耐えている。
犬が焦げて煙を上げ、肢体を上下させているのを見る。
炎は消せたようだが、瀕死の状態か?
は立ち上がった。
「Locomotor Mortis」
何とか杖を振る。
足がガクガクと震えているが、杖先からはその犬に向かって閃光が飛ぶ。
しかし足縛りの術が届く前に、その犬は飛んでいた。
目の前で右腕が噛み砕かれるのに、抵抗が出来なかった。
身体は衝撃で後ろに跳ね飛ばされ、足が空に浮き、背中で地面に着地する。
喉から声とは言えない音が漏れた。
身体が意思に従わない。
ジンジンと、振動と痛みが身体を走っている。
すると、不恰好な動物の足音が遠ざかるのを耳にする。
霧に包まれたようなぼんやりとした視界にあったのは、空と木の葉だけ。
身体は力なく、大の字に寝転がっていた。
*
「――逃げられた」
木の葉の囁きの中で、呟いた。
「情けない……不甲斐ないわ」
は眉を寄せる。
その言葉が呪文のように、は身体をゆっくりと起こした。
は口を閉じ、杖で自分の身体を治療し、取り合えず包帯を巻き付ける。
木に凭れて座る格好になる。
溜息を吐きたい気持ちだったが、それはしなかった。
未だ肩は上下し、息は荒く、目は霞んでいる。
血を多く流し過ぎたのかもしれない。
土と血で汚れたマントが其処にあり、に合わせてそれも上下する。
冷や汗が冷たくて、少し寒い。
しかし身体の中はとても熱かった。
「……帰れるか?」
自分に問う。
ホグワーツ城が遠い。
は視線を自分に戻す。
すると其処には、じくじくとまだ鮮明に痛む身体がある。
血は包帯を酷く汚している。
は数秒間じっと右腕を見て、そして左腕で何かしらの呪文を唱えた。
そうするとは身体をすんなりと起こし、右腕よりまだ軽症に思える右足を庇いながら、なんとか歩き始めた。
木の数が少なくなり、月が真っ向に光を差す。
眩しいと思って左手で目を庇った。
すると。
「!」
は聞き慣れている声を耳にし、間違いのないその姿を認める事が出来た。
「……スネイプ……?」
どうしてかこの男がこっちに駆け寄っていて、は眉を寄せる。
素直に驚きの感情が心に満ちる。
「何……!?」
そう言った時には、セブルスはもうの傍らにいた。
は、珍しく少し息を荒げている彼を見上げた。
――すると、急に自分の身体が軽くなる。
今まで重くて重くて堪らなかったのに。
空に浮いているような。
鈍った視界ではその状況をすぐに判断出来ず、は顔を上げた。
すると、すぐそこに彼の顔があるのに驚いた。
「なっ……!? 貴方、何やって……!?」
は急いで周りを見てみる。
地面は一段階、の身体の下にあった。
気が付いてみれば。
肩と膝の下に回された腕に、胴の横にある自分のものではない身体。
完全に持ち上げられていて、これは俗に言うお姫様抱っこ状態ではないのだろうか?
ヒラヒラとのマントが、空中に情けなくはためいている。
「――貴方――ずっと地下に篭りっきりなのに、私を持ち上げるだけの力あったの……?」
「言いたいのはそこか?」
きょとんとした表情のは冷静に言って、セブルスを傷付けた。
しかしは次の瞬間はたと我に戻り、焦ったように態度を豹変させる。
「え……わっ……ちょっと!? あ……下ろして――!」
は焦り焦り、セブルスの腕の上で右往左往する。
セブルスは今更だ、と思いながら言葉を返す。
「下ろして、城まで辿り着けるのかね?」
まるで生徒相手のように講義の時のような口調で言われて、はむくれた。
「……行けるわよ。行ける! だから下ろして、って!」
は身体をセブルスから遠ざけるように、退かせながら言う。
「――それはその魔法を解いてから言え」
上から降って来た言葉に、は気付いたように顔を上げる。
その間も、その身体は規則正しく揺れ、確かにをホグワーツへと誘っていた。
「……分かるの?」
「ああ。お前が嫌う闇の魔法使いになりたくなければ、その魔法は使うべきではない。お前が一番――」
「知ってるわね、ええ」
そうして闇に染まったものを、多く見た。
は右腕にかけていた闇魔法を取り払う。
感覚を遮断する魔法だ。
勿論、これは世の表に出ているものではない。
感覚が消える、という事は、生物ではなくなるという事だ。
今も昔も、たまに必要に駆られて使う事もあったが。
「……もう使えないわね」
この、彼に言われたのならば。
は苦笑する。
かつて闇に堕ちた者にこう言われるなんて。
右腕から血が滴り、全身が軽く震えた。
「では、大人しく我輩に運ばれろ」
「――んな訳ないでしょ! 早く下ろしなさいよっ!」
はくるりとセブルスに顔を向け、前の調子のままで言った。
「案外元気なようだな。しかし、ホグワーツ城まで運んで貰えるのだぞ? 何処が悪い?」
「あーのーね、恥ずかしいに決まってるじゃない」
はそう言うと、セブルスの表情に首を傾げた。
「何驚いてんの?」
「いや……」
の口からそんな言葉が出るとは思っていなかったので、セブルスは確かに驚いていた。
「恥ずかしい」なんて。
は息を吐いて話し始める。
「良い歳した大人がこんな事されて、生徒にまで見られたら、恥ずかしいに決まってるでしょ。
それに妙な噂でも立ったら貴方だって面倒じゃない?」
無言でいるセブルスに、は畳み掛ける。
「聞いてる?」
「ああ、聞いている」
素っ気無い言葉には眉を寄せるが。
「ならば、大広間の前まではどうだ? 満足に歩ける身体じゃあるまい」
「城門の前」
「……分かった」
自分の腕に乗っているというのに、きっぱりとしたその物言いに、セブルスは少し息を吐いた。
彼女らしいとも言えるのだが。
セブルスがへと視線を向けると、は少し目線を緩めたかと思うと、少しはにかんだ。
「とは言ったものの――有難う」
はゆっくり笑みを作る。
それは苦笑も多少含んでいた。
「正直言ったら……。
魔法を外しても、こうして普通でいられるのは貴方のお陰なのよ。
やっぱり身体が楽だし、本心で城まで行ける自信もないし。ブラックには、逃げられたけど」
は言葉を切って、微笑を完全に苦笑に変えた。
「感謝してるわ。どうして貴方が此処にいたのか、知らないけど。
申し訳ないけど、城門から中に入ったら、肩を貸して貰えないかしら?」
「……承知した」
はにっこり笑った。
そしてその後少し、表情を曇らす。
視線を一瞬セブルスから逃がしたが、ゆっくりと彼へと向け直した。
「――それと、今の内に――不甲斐ないんだけど――……痛がって、良い?」
そう搾り出すように言うと、曇った表情が苦痛の表情に変わる。
すると苦痛の表情が、脂汗を流し始める。
セブルスは本気で焦った。
目の前で彼女は息を荒げ、右腕をしっかと握り締めている。
目をきつく瞑り、痛みに身を少し捩じらす。
不味い。
セブルスは舌打ちして、城への道を急いだ。
2008/1/11
next
top