16/暗闇を見た少年














医務室のカーテンの隙間から、黒い星空が顔を見せている。
嵐が空の雲を一掃したようだった。

深夜の医務室に、こっそり忍び込もうとする人影が一つあった。

はゆっくり足を進め、目当ての少年の側に立つ。
少年は安らかに寝ているように見えた。
は少年のそれ程変わりない様子に安堵し、その場を立ち去ろうとした、が。


「先生」

「……御免、起こしちゃったわね」


ハリーが目を開け、ベッドの中からを見ている。
は応えて振り返る。


「いいえ、あまりよく眠れていませんでしたから」

「そうなの? それは不味いわ。まだ朝まで時間はたっぷりあるわよ」


はハリーのベッドに戻り、少し迷ったが、椅子を引き寄せてそこに腰掛けた。
しかしハリーは目を瞑ろうとする気配は一切ない。
緑色の目が一心にを見ている。


「僕が箒から落ちた時、助けて下さったんですよね?」

「――ええ」


は低く呟く。
の胸は痛んでいた。
恐らく、ハリーは感謝の言葉を言おうとしてくれている。


「……御免なさい」


が唐突に言った言葉に、ハリーは目を見開いた。


「貴方を守る、って軽々しく言っておいて。
 私は、貴方がピンチの時にホグワーツにいなかったわ。本当に御免なさい」


ハリーはの表情を見る。
彼女は苦しそうに、眉間に皺を作り、目をじっとハリーの目に向けていた。
黒い目が憂いを含んでいる。


「……いいえ、守って貰いました」


ハリーはにこりと微笑んだ。
は驚いたようにするが、じきにつられて、少し唇の端を上げる。
そして一度目を伏せると、は苦笑交じりに微笑んだ。

そして少しの沈黙がある。


「――寝つけない?」

「はい」

「私が此処を出て行ったら寝つけるかしら?」

「いいえ、目が冴えてしまっていて」


は今から自分がしようとすることに、苦い気持ちを抱いた。


「それなら……苦しい記憶を思い出させる事になると思うのだけれど、貴方に頼みたい事があるの。
 決して今するべき事ではないのはわきまえてるわ。
 でも、正直、出来るだけ早く聞きたいの――勿論、嫌なら嫌だと言って」

「何ですか?」


はこんなことをすぐに聞く、我が身を呪いたくなる。
しかしきっと、魔法省は明日にでも自分を呼ぶことは分かっている。
だから早く情報が欲しい。


「箒から落ちた時のことを聞かせて欲しいの」


ハリーはに口を開いた。
その時の光景をゆっくりと語り始める。

彼の話だと、雨の降りしきる中、雷が光った時に――大きな黒い犬が現れたらしい。

ハリーはそれを言うのを躊躇っていた。
ちらりちらりと、縋るような視線がこっちに寄越されるのをは見ている。
がそれについて言及しないと、ハリーはそれから吸魂鬼が現れ、女の人の声が頭の中に響き、箒から落ちたことを語り切った。

ハリーの表情は、当然ながら曇っていた。


「有難う、ハリー」


は頭の中を渦巻く思考を押し留め、目の前の少年に語り掛ける。


「吸魂鬼は、魔法界でもっとも忌み嫌われている生物よ。
 彼らは人の幸福を吸い取り、最悪な経験だけを人の心に残す事が出来るから」

「僕は――」


そう言い掛けたハリーが、喉をきゅっと詰めた。
大体予想は出来る。
彼が言う、女の人の声とは……。

しかし、それをこっちから言うか言うまいか、判断がつきにくかった。
これ以上辛いことを思い出させたくない。


「貴方は他の子達よりも、恐怖の記憶の程度は酷いものよ。
 だから、箒から落ちるのも無理はないわ。寧ろ、それだけで済んだのが良かった位よ」

「ヴォルデモートが僕の母さんを殺した時の声が、聞こえるんです」


ハリーは絞り出した声で言い、へ何かを言って欲しいという目をしていた。
はそれを見て瞬きをする。
しかし、は言うべき言葉が見つからなかった。


「吸魂鬼が近付くと、いつもです」


言うべき言葉が見つからない。
ハリーを見ると、まっすぐな目に打たれる。
彼は私に何を求めているのだろう?

彼の、母親が――

ハリーもも微動だにしない、長い沈黙があった。


「……御免なさい、何て言えば良いのか、私には……」


が呟いた。
は下手をすると、軽率なことを言ってしまいそうな自分が怖くて、言うことを拒んだのだ。
とんでもないことを口にしそうで。

考えれば考えるほど、胸がぎゅっと軋んだ。
この所全く感じたことのない軋み方で、動揺しているのが自身で分かる。


「……分からないわ。本当に御免なさい」


ハリーは目線を逸らし、大きく息を吐くに、釈然としないものを感じた。
様子がおかしい。


「どうかしたんですか?」

「いいえ、何でもないわ。それより大きな黒犬について、詳しく聞きたいんだけど」


は椅子に座り直し、口調を明るく言った。
ハリーは元から気にしていたことにが言及してくれ、口をすぐに開ける。


「あの犬は――グリムじゃないかと、思うんです」

「どうして?」

「前は、ナイトバスに轢かれそうになった時に見たんです。
 そして今回も――死にそうな目に会う時に、その犬と出くわすから……」


は少し考え込む仕草をする。
そして何かに思い当たったようで、ハリーにまた質問をする。


「その犬って、どれ位の大きさ?」

「えーっと、……これ位です」


ハリーの手の動作で、は大きさを納得する。


「その犬って結構毛むくじゃら?」

「はい」

「無性に熊っぽくない?」

「そう言われれば、そうかもしれません」

「で、痩せてた?」

「……はい」


――ブラックじゃん。

最初に聞いた時に、そう感じ取ってはいたけれど、まさかここまでドンピシャだなんて。
唇が微笑みだすのを堪える。


「何か、分かったんですか?」

「もう一つ、最後に確かめたいわ。最初にその犬に会ったのは、確かマグルの居住区よね?」

「そうですけど」


矛盾が疑問を呼び、疑問が取りあえずの答えを弾き出す。
それの合否はまだ分からないが、その内容がどうも面白い。
ハリーが嘘を吐いている訳はないだろうし。

はふらりと立ち上がる。
答えてくれずに立ち上がるに、ハリーが咎める視線を送る。


「そのことは心配しなくて、大丈夫だと思うわ――私のことを信用してくれるなら。
 貴方のお母様が貴方を守った印は、そんな程度では破れないでしょう。
 現に、二度の死神犬から貴方を守ってくれたわ。
 ま、それがヴォルデモートだったら、私はそんなに簡単にものを言えないけれど……」


ハリーはが最後に言った言葉に驚いていた。


「先生は、その名前を言うんですか?」

「面識あるし」


ハリーがあまりにも驚いた顔をしているので、は笑う。


「この職業してれば、会うこともあるわ」


苦笑に似た笑い方だ。
ハリーは何を心中に秘めているのか、の姿をじっと見ていた。


「じゃ、もう一度寝なさい、ハリー。朝までちゃんと休むのよ」

「待って下さい! もうちょっと話して欲しいことが――」

「駄目よ。ただでさえ不法侵入なのに。マダムに殺されるわ」


は手をヒラヒラと振る。
ハリーはを止めようと、ベッドから出ようとしたが、急に頭がずしりと重くなる。
反射でを見れば、その手には杖が。


「卑怯です……」

「それで結構。おやすみ」


はとろとろと眠り始めるハリーを眼下に納める。
そしてもう一つ、言っておいた方が良いと思う言葉を思い出した。


「ニンバスは残念だったわね。どうしても、全ての部品も見つからなくて……」


ハリーはそこまで聞いた所で、意識が途切れた。















は静かに出口へ向かい、ドアを閉める。
極力音を出さないようにしないと……私が侵入者だということを忘れてはならない。

廊下に出て、目の前の窓の中に広がる真っ黒な空を見た。

は背中のドアに凭れる。
そして目を伏せた。

シリウス・ブラックはハリー・ポッターを殺そうとしている。
ヴォルデモートの元に、それを手土産にして馳せ参ずるためにだ。

なら、何故マグルの居住地でハリーを殺さなかった?

大きな黒犬に姿をやつし、目前にその少年の姿を目にしていただろうに。

歯車が、掛け違っている気がする。
何かが違う気がする。
どうしてだろう。

それは、前に会ったブラックの印象が根強く胸に残っているからかもしれない。
あの死喰い人らしくない気配だ。
これは証拠になるのだろうかは、疑問だが。

しかし、今まで私の直感は嘘を吐いたことがないのだ。


「……魔法省には、言えない。ハリーにもそんなこと言えないし……」


一人、頼りになる闇祓いを脳裏に描いたが、彼にも言えない。
彼は適切な一般論を提示してくれるだろうし、力になってくれるだろうが……。

まだ、だ。


「……まだまだ、此処で考える余地はあるもの」


掛け違った歯車が、不興音を出して回り続けている。
絶対、止めてやる。
真実を見たい。

此処でも、恐らくは一人じゃない。

十二年に渡るその胸の内を、果たすために此処にいるのだから。


は急いでマントを翻し、これからすべきことを整理する。
此処に来るまでは、ずっと吸魂鬼と一緒にいた。
明日は恐らく、魔法省から呼び出されるだろうから……。

早く、しないと。

そのためには早く寝るのが先決、とは地下へ足を向けた。



























2008/2/11






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