11/ボガートの悪夢
トンクスの挙動がおかしい、とは思っていた。
何がおかしいとは明確に言えないが、どことなく、今まで見てきた彼女よりも更に挙動に落ち着きがないような気がするのだ。
しかし、その原因を突き止めるには暇がなくて、もそのようなことばかりを気にかけておられず、そうしている間に時間はとうとうと過ぎていった。
トンクスに彼女には珍しくおずおずと話しかけられることで、その原因はようやく顕在化した。
「ねえ、」
「ん?」
「リーマスの好きなタイプって……知ってる?」
いつの間にか、厨房にはトンクスと以外の人間がいなくなっていた。
は読んでいた本から顔を上げると、トンクスのどことなくキラキラとした潤んだ瞳を見据えた。
いくら朴念仁とて、これほどの状況が合わされば、彼女の思惑は容易に想像できた。
「、リーマスと付き合いが長いんでしょ? 分かる?」
「ブラックに聞いた方が確かだわ。彼の方が付き合いが長いもの」
「シリウスに聞いたら、吹聴されるに決まっているじゃない!」
そう言うトンクスの顔は、俗に言う、恋する乙女の顔であった。
は本にしおりを挟んで閉じ、テーブルの上に置いた。
「私は、そういうのにとても疎い性質だから、あまり言えることは少ないんだけど……リーマスと貴方は歳が離れている、ということは問題にならないのね」
「そうよ」
「正直、貴方がリーマスを気に入るとは予想していなかったわ」
「は自分のことで一杯だからよ。セブルスと楽しくしているから」
そうだろうか、は自問自答したが、きっとそうでなくても予想はできなかっただろうという結論に達した。
一人で悶々と考え込んでいるに対して、トンクスは拗ねる。
「。応援してくれるよね?」
キラキラした瞳で見つめられる。
はそれに少し物怖じしてしまった。
正直な言葉が口をついて出る。
「そりゃあ、反対する理由もないし……」
「じゃあさ、分かる限りで良いから、リーマスが好きそうなタイプを教えて」
「……そんなことを言われても……」
私はそういうことには疎いんだ。
は頭を抱えた。
トンクスから色々な攻撃を受けるものの、は明確な返事をすることはできなかった。
私相手にそういうことができる元気があるのならばリーマス相手にそうしたら良いのに、と思ったので、それを彼女に話した。
私相手にそういうことをしても何も出ては来ない。
それに――は、リーマスの心中を今までの経験から何となく思い描くことが出来た――しかし、それを決してトンクスに告げはしなかった。
人狼である彼は、きっと若いトンクスのそのような気持ちに応えることはしないだろう。
二年前、最終的に人狼であることを暴露された彼は、自らホグワーツを去った。
彼はそういう人だ。
は暗雲に似た気持ちを抱えた。
8月30日に、教育令第22号――現職の校長が空席の教授職に候補者を配置できなかった場合、魔法省が適切な人物を選べる――が制定された。
アンブリッジのあの時の笑顔はこの思惑があったからか、と随分後になってから気付く結果となった。
ダンブルドアがこの職に就く人間を探すのにとても難航していたことを、以前に耳に入れていた。
その状況を鑑み、魔法省は法を定めて強行したようだ。
アンブリッジはホグワーツの闇の魔術に対する防衛術の教授に就任するだろう。
魔法省のスパイとして。
*
ホグワーツ特急が出発する前の日、翌日のキングス・クロス駅への警備のこともあり、ムーディと夕方にグリモールド・プレイスへ向かった。
厨房へ足を踏み入れるなり、モリーがとても上機嫌な様子で朗らかに話しかけてきた。
の目はテーブルの上を横切る真紅の横断幕――おめでとう! ロン、ハーマイオニー、新しい監督生――へ釘付けへなった。
また、夕食はいつもにもなく豪華でテーブルの上から溢れ出さんばかりだった。
「まあ、アラスター、、いらして良かったわ。
ずっと前からお願いしたいことがあったの――客間の文机を見て、中に何がいるか教えてくださらない?
とんでもないものが入っているといけないと思って、開けなかったの」
「引き受けた、モリー……」
ムーディが魔法の目を上に向ける。
もムーディにならって横断幕から目を離し、ふいと天井を見上げた。
「客間……っと。隅の机か? うん、なるほど……。ああ、まね妖怪だな……モリー、わしが上に行って片付けようか?」
「いえ、いえ、後で私がやりますよ」
モリーはロンとハーマイオニーが監督生に就任され、今日はそのお祝いだということを嬉しそうに告げた。
ハーマイオニーが監督生になることは予想していたが、ロンが就任するとは――思わずはそう思ってしまったが、それを顔に出さずにお祝いの言葉を述べた。
きっと、ダンブルドアはハリーへの負担を軽減しようとしたのだろう、ロンも素晴らしい生徒なのだ、と考えておく。
なにしろ、あの校長先生の思考は私などには読み解けないのだ。
大方の人数が集まってから乾杯をして、パーティーが始まった。
例に漏れず、ムーディーは念入りに口に入れるものを確認していたが、いつものことなのでは何となくそれを眺めていた。
は、不死鳥の騎士団の本部で食べ物に注意を払うムーディほど、病を進行させてはいなかった。
去年一年で師匠の病気が酷くなったことは確かに承知していたが、いちいち側にいて毒味をしてあげるのは、彼のためにはならないだろう。
そう判断し、はムーディの側から離れた。
トンクスはリーマスとくっついて離れないし、ロンは新品の箒――新しく買ってもらったのだろうか――の自慢を至る人にふっかけ、マンダンガスとフレッドとジョージは隅っこで怪しげな話をしていた。
下手に口出しするのも野暮だし面倒臭いと思い、は本格的にご馳走に手をかけようとした。
手を伸ばした先で、違う手が皿との手を隔てた。
は顔をその手の持ち主へ向けた。
「……ブラック」
シリウスは驚いた顔をして、手を引っ込めた。
がいることに気付いていなかったらしい。
自身も、そういうことをしてしまった自分の迂闊さに舌を巻いた。
しかし、何事もなかったかのように微笑む。
「お先にどうぞ」
簡潔にそれだけ述べて手で促すと、シリウスはおずおずと唇に笑みを作った。
「……ああ、有難う」
皿に料理を取り分けているシリウスを見て、このままこの場にいるのもどうかと思ったので、足を違う方向へ向けようと思った。
「シリウス、あん時のとスネイプのやつ、凄かったよな」
さっきまで貴方達はマンダンガスと話していたじゃないか。
何というタイミングか、双子がとシリウスの間に入ってきた。
そして二人で顔を見合わせたかと思うと、フレッドがジョージの首に手を回した。
そしてうっとりと顔を二人で見合わせた――セブルスと二人で玄関の前にいた時の模倣を、彼らは実に楽しそうに行っていた。
「こんなんやってさあ、俺らみたいな子供がいるのになんてお熱いことをしてくれるもんだ」
「羨ましいぜ」
はシリウスがその場にいるものの、何か言葉を述べなくては気が済まなかった。
彼の前ではあまり言葉を発したくはなかったし、彼の前に長居したくなかったのだが。
マントの下で腕を組んですっと目を細めてから出した声は、いつもより低いものだった。
「羨ましいなら、彼女でも作りなさいよ」
「ここでは節度ってものを保って欲しいよ」
は眉をぴくりと動かした。
「……確かにそうね。そういえば、以前にそれを保とうと思ったはずだったんだけど……」
「だけど?」
フレッドとジョージは一緒に同時に言った。
はふいと視線を自分の斜め上に向け、首を傾げた。
眉間にゆっくりと皺が寄る。
「思った以上に、彼とはたまにしか会わないのよね。というか、二年前からまともに会ってるかしら……」
一人で腕を組んだまま考え出したを見て、フレッドとジョージは顔を見合わせて肩をすくめた。
そしてシリウスへ二人で顔を向けて、にやりと笑った。
「シリウス、付け込む余地はあるみたいだよ」
「……お前らなあ……」
シリウスは困り果てたかのように頭をかいた。
がじっと少し不機嫌な顔でシリウスの方を見つめると、シリウスはその視線を避けるかのように目を背けた。
案外シャイなものだな、とは思った。
周りの人々は、「またか」とでも言いたそうにシリウスとをちらちらと見ていた。
以前の喧嘩は周知の事実となっているようだった――はそれがとても心外だった。
双子へ声をかける。
「貴方たち、面白がっているだけでしょう?」
「これを面白がらずにどうしろって言うんだ?」
彼らはにまにま笑っている。
は大きく溜息を吐いた。
きっとこの様子ではシリウスもこれ以上に私へ働きかけることはないだろうから、そのまま立ち去ろうと足の方向を変えた時。
「」
話しかけられてしまった。
この男は学習能力というものがないのか、どうしてこのタイミングに話しかけるのだ、心の中で愚痴った。
足を止めざるを得なくなったので、彼と顔を見合わせて、何だ、という表情を作った。
案の定、フレッドとジョージだけではない周りの人々がこちらに注目を払った……注目の的だ。
「あの……以前のことなんだが……」
シリウスの目の前で、ふいには堅かった表情を緩めて目線を天井へ向けた。
シリウスがそれを不信に思っている間に、は目線をシリウスへ戻して、端的に述べた。
「ちょっとごめんなさい。気になることがあるの」
は黒いマントを翻してその場を立ち去り、厨房を横切った。
出入り口に戻る時に、ムーディがハリーへ古い写真を見せているのを見かけた――何をしているのだ、この師匠は。
師匠の口から不吉な言葉が聞こえてくる。
嫌な予感がしたので、ふいに足を止めてそこを覗き込んでしまった。
ムーディの言葉が耳に入る。
「……ギデオン・プルウェット。こいつと、弟のフェービアンを殺すのに、死喰い人が五人も必要だったわ――」
彼は古い写真――恐らく、以前の不死鳥の騎士団のものではないだろうか――を指差し、その人々についての解説をしていた。
それらの人々の多くは死亡したのではないだろうか……ハリーはそんなことを知りたいものだろうか……。
現に、側にいるハリーの表情は強張り、明らかにムーディの言葉を嫌がっていた。
「アラスター」
ムーディが写真を覗き込んでいた顔を上げた。
「ちょっと気になることがあるの。付いて来てもらえるかしら?」
天井を指差してそう言うと、ムーディは了承の言葉を吐いて写真をローブに仕舞い、の後に付いた。
ハリーの安堵した表情がちらりと見えた。
が立ち去った厨房でシリウスが立ち尽くし、周りの人々もの行動に眉を寄せていた。
のことをよく知っているキングズリーとトンクスは顔を見合わせ、肩をすくめた。
とムーディの足は階段を上り、壁にかけられた剥製にされたしもべ妖精の首の前を通り、踊り場を通って客間へ向かった。
啜り泣きが客間の少し開かれた扉から漏れ聞こえてくる。
急いでそこへ向かって客間の扉を開けると、大の字に倒れたハリーの身体が目に入った――死体――ボガートだ。
窓からの月明かりに照らされ、死体の虚ろな血の気の抜けた顔が露になっている。
その側の壁際で、モリーは杖を片手に持ち、それから目を背けるように震えて泣き崩れていた。
足の自由のきくが急いで割って入り、杖を振った。
「リディクラス」
ハリーの死体は消え、代わりにその場に黒い人影が現れた。
逆光でその形しか確認することができないが、はとても嫌な感じが背筋を駆け上った――これと似たものを、二年前に見たことがある。
一瞬で凍りつきそうになった自分の身体を奮起させ、はその影へ歩み寄った。
全身の神経がピリリと敏感になり、空気の埃っぽさと饐えたような臭いを敏感に感じ取った。
一歩一歩と近付くにつれて、それがの予想していたものととても似ていることに気付く。
ボガートの背後の月が一瞬だけ雲に隠れ、その者の顔が判別できた。
死喰い人の仮面をつけているのを確認すると、は手を握り締めて月の光の差す方向へ足を速めた。
心臓は身体を突き動かすかのように大きく鼓舞し、汗の伝った額が冷えた。
しっかり持っているはずの杖が震えた。
死喰い人の身体が動き、手に持った杖がへと向けられる。
はそんなことも目に入っていないような形相で、その影の前に辿り着いた。
二つの背丈はほとんど同じだった。
唇を噛み締め、死喰い人がこちらに向けた杖を素手で押さえ込む。
仮面をもぎ取ると、仮面の奥から長い黒髪がはらりと舞った。
頭の中で以前の光景と今の情景が混ざり、頭の中が掻き乱され、少し混乱した。
何とか頭を落ち着けようとする。
「――私は、何も変わってはいないのね」
苦虫を噛み潰し尽くしたかのような声色が響いた。
予想通りだった――の目の前には、自身の顔があった――。
ただし、その表情は苦虫を噛み潰したようなものではなく、そういうを嘲笑うかのような清清しい微笑を浮かべ、彼女自身を見下したような瞳をしていた。
その唇が動こうとするのを目に留めて、脱力して力の入らない四肢に無理やり力を込め、杖を手の平で握り締めた。
「消えて」
次の瞬間にボガートは掻き消えた。
違和感を覚えて後ろを振り返ると、ムーディも杖をこちらへ向けていた。
ムーディがボガートを消してくれたらしい。
ムーディの背後には、シリウス、リーマス、ハリーがいて、リーマスは懸命にモリーを慰めていた。
シリウスとハリーのこちらへ真っ直ぐへ向けられる視線、また、リーマスがちらりとこちらへ向けた視線に、は射抜かれるような感覚を覚えた。
私はとても「私らしく」はない、おかしなことをしてしまった。
額を伝う汗と、すぐには動きを止めない心臓、痺れる神経を今更ながら強く感じた。
がうまく動かない唇で何か言葉を吐く前に、ムーディが四人へ振り返った。
「モリーを下へ連れて行ってもらえんか? 頼む」
「分かった」
リーマスが短く答えると、さっさと三人を連れて客間から出て行き、扉が音を立てて閉まった。
は、そのリーマスの行動はこちらへの配慮かも気にしないまま、よろよろと窓へと向かって壁を伝ってしゃがみ込んだ。
ぎゅっと目を閉じて視界が真っ暗になってから、目を開く。
古ぼけた壁が目に入るのを確かめてから息を吐いて、義足の音を立てて近付いてきたムーディを見上げた。
「あやつらには何も見えてはいない。黒いフードを被った影以外は、逆光で確認できていない。
わしも死喰い人の仮面くらいしか見えなかった」
「……良かったわ」
「正気はあったか?」
「なかったかもしれない」
壁を見つめてから、は壁に手を当てて身体を持ち上げて立ち上がり、壁にもたれ掛かった。
するりと視線をムーディから逃がし、ガラスの窓の外へと向けた。
真っ黒な空に月だけが煌々と輝いていた。
星は電灯の明かりで、見えない。
「……アラスター、貴方は、私の怖いものが予想できる?」
「……」
「セブルスだけは知ってるわ。私の怖いものをね」
振り向いてムーディの顔をじっと見つめたは、唇だけで微笑んで、また顔を窓へと向けた。
「私は、セブルスか貴方が死んでいる光景が現れて欲しかった。でも、私は、何年経っても、自分のことしか考えられない人間みたい」
「――――お前は――」
は横目でムーディを見ると、ムーディはの頭の中を見透かそうとしているように、眉をぎゅっと寄せていた。
そして、唸った。
「……そうか。お前は、あの時と変わらないのか」
「あの時?」
「わしの所に転がり込んできた時だ」
「――貴方は本当に、その「目」で、私の怖がっているものを見透かさなかったのね。そうよ。私は、あの時から変わってない」
ムーディが溜息を吐く音が聞こえた。
きっと、呆れ果てでもしたのだろう。
ムーディがこちらの背後に近付く音が聞こえたかと思うと、不意に頭に髪を撫でられた。
昔ならばよくあったことだが、今現在このようなことをされるなんて……は驚いて顔を上げると、ムーディはまるで父親かのような表情をしていた。
「スネイプには何をしてもらった?」
「……抱き締めてもらった。ねえ、アラスター、貴方は――」
「よし」
後ろから抱き締められ、よしよしと背中を撫でられる様は、まるで娘と父親かのようで。
は、自然に心に安堵感が戻って来て身体から力が抜けていくのを感じ、そのままムーディに任せてみた。
「私はもう子供じゃないんだけど……」
「あの時から変わってはいないんだろう?」
「そうだけど……」
は困った声色を隠さなかったが、そのまま口を閉じた。
ムーディに何もかもを言ってしまえたら、と思った。
彼は私が見たものを何と想像しているのかは分からないが、恐らく、実際のものと近いものを想像しているだろう。
この思いを吐き出して、二人で分け合えたら、それはなんと心安らかなことだろう。
だが――それは、年甲斐にもなく、あまりにも師匠に依存し過ぎているのではないか――。
セブルスという人は私のボガートの正体を見た上で、私のことを分かってくれている。
そういう人がいるのにこれ以上のことを望むのは、高望みし過ぎではないだろうか。
なんて厚かましく傲慢なのだ。
それに、闇祓いとしての師のムーディにこんなことを述べるなど、裏切り行為だ。
「私は死喰い人になるのが怖い」など、私の口から師匠に言うことなどできない。
……私は何も言えない。
は空を見上げたまま後ろへ振り返ることができず、手を握ってムーディの腕を外してから、そっと後ろを振り返った。
「有難う。もう大丈夫」
いつも通りの笑顔を見せられているか自信はなかったが、微笑んだつもりだった。
いつまでもムーディの腕の中にいられるわけがない。
ムーディは肩を下ろし、の気持ちを見透かそうとしているかのような探る視線をしてから、そうか、と一言呟いた。
いつも通りの廊下だったが、の目にはそれがいつも通りのものには見えなかった。
心臓の鼓動と神経の昂ぶりは収まり汗も乾いていたが、心の動揺はすぐに収まるものではなく、ムーディと離れてからは壁に縋るようにして歩いていた。
そうしていると、廊下の向こうにこちらを待ち構えているものを確認して、手を壁から離して曲がっていた背筋を伸ばし顔の筋肉を意識した。
きっと、酷い顔と姿勢をしていただろう。
廊下の向こうに黒犬がいた。
黒犬はこちらの姿を確認すると、尻尾を小さく揺らしてトコトコと足音を立ててこちらへやって来た。
真っ黒な丸い瞳でこちらを見上げると、こちらの指先をちろちろと舐める。
は彼はどうやら構って欲しそうだと判断して膝を下ろすと、黒犬はその膝の上に前足を乗せて控えめに頬を舐めた。
全体的に控えめな動作には小さく微笑むと、黒犬の豊かな毛に手をかけ、その首元を少し撫でた。
犬に八つ当たりをするほど、心は荒んではいない。
これが、「人間」の姿をしていたら別であったが。
「……心配してくれていたの? 私の様子がおかしかったから?」
犬は唸ることも吼えることもせずに、こちらへ「愛撫」と呼べる行動を続ける。
生暖かく湿った舌が相変わらず頬をぬるく撫で、動物の高い体温が身体に染みた。
柔らかい毛並みが手の平に心地良い。
彼は言葉を放ちたくないらしいが、私のことが気にかかっていたらしい。
だから、この姿を選んだのか。
自然に顔は笑んだ。
「ありがとう。大丈夫よ」
はシリウスの顔を優しく撫でると、その顔をじっと眺めてその鼻先へ唇を落とした。
一瞬、黒犬の身体が強張り、尻尾がピンと立った。
は微笑ましく思ってくすりと笑みを漏らした。
「ごめんだけれど、先ほどの話の続きは後日にしてもらえるかしら? 話を途切れさせてごめんなさいね」
頭をもふもふと撫でながらそう言うと、黒犬は小さく吼えた。
それを了承の合図だと思って、は黒い犬を通り越して己にあてがわれた部屋へと足を進めた。
黒犬はもう後を追っては来なかった。
2011/5/19
next
top