17/闇の印を持つ者
目の前で闇の帝王が自らの手で彼の腕の闇の印に触れるのを見ると、自らの腕のそれが熱く燃えた。
黙ってヴォルデモートが身を翻してその部屋のドアから出ようとすると、はそれを追った。
彼はいつも黒のローブを纏っており、その裾は彼の歩みに合わせてゆらゆらと揺れる。
その背中を見つめて彼にひたすら付いて行く。
辿り着いた古い木でできたドアの取っ手を引き、ヴォルデモートはその中へと入って行った。
闇の印による招集がされて数分と経たないが、そこには死喰い人が既に集まり椅子に座っていた。
ヴォルデモートはその面々の顔をそれぞれ確かめるかのように見ながら、テーブルの奥の上座へと腰かけた。
はヴォルデモートがぎしりと音を立てて腰を掛けると、引き続いて彼の左側に座った。
「セブルスは?」
ヴォルデモートが初めて口を開いて述べた言葉はこれだった。
彼の右側の椅子は空席であった。
「……彼はとても、忙しいからな」
は世間話をするかのように何気なく口を開いた。
形の良い唇が笑みを描き、顔を動かさずに視線だけ空席へ向けた。
「ダンブルドアの使い走り、ホグワーツの教授……ああ、それに腕に闇の印を持つ闇祓いの恋人でもあったか」
小さな笑い声がした。
そちらの方向には視線を向けると、ふと笑ってその人物の目を捉えた。
「何か面白いことでも? ルシウス」
「いえ……随分と仲睦まじいのが微笑ましいと思いまして」
「私もそう思っているよ。蝙蝠二匹が連れ合っているのは面白い」
は澄ました顔でそう述べると、ついと顎をヴォルデモートへ促すように動かした。
ヴォルデモートは赤い目を細めた。
「ルシウス、スタージス・ポドモアの件は?」
ルシウスは先ほどまで薄ら笑いを浮かべていた表情を引き締め、ヴォルデモートの目を恐れながらも答えた。
「あやつは私が服従の呪文をかけたことを自覚しておりません。アズカバンから釈放された後も、措置は不要かと」
神秘部の前には透明マントを被った騎士団員が常にいる。
セブルス・スネイプからの情報であった。
その騎士団員を利用して神秘部へ侵入しようとした計画は、神秘部の特別な警護魔法のために失敗に終わった。
――どういう方法で誰が予言を取り出すことができるのか――その方法が未だ分かっていない。
「私の情報によりますと、ブロデリック・ボードが予言を取り出すことができるとのことです」
あまり普段は声を出さないものが発言した。
エイブリ―が普段になく背筋を伸ばしてはっきりと言葉を放った。
「それは真か? エイブリ―」
「ボードは神秘部に勤めております。神秘部に勤めている者からそのように聞きました」
「……なるほど」
ヴォルデモートは唇をすっと人差し指でなぞった。
は彼が深い思考に耽っているのが分かった。
彼がふっと息を吐く。
「考えておこう。報告ご苦労」
「ありがとうございます」
「実行するとすれば、ルシウス、お前にまた任を頼むこととなる」
「了解いたしました」
ルシウス・マルフォイはこの頃常に魔法省に入り浸っている――そうして、闇の帝王の任務を果たしているのだ。
金と権力を持つ彼は魔法省内の情報を探ることに長けている。
対して、ヴォルデモートは今は動くことはできなかった。
ヴォルデモート卿は復活していないと折角魔法省が人々をそう信じ込ませている時に、どうして世間に姿を現す必要があるだろうか?
それに、現在は死喰い人も少なく劣勢の状況である。
「それともう一つ。ナギニに神秘部を偵察させる計画を考えている」
「セブルスがいなくて好都合だ」
が発した言葉に、ヴォルデモートが視線をへと向けると、彼女はにやりと微笑んだ。
「卿、計画に付け足しを提案したい。お前が望んでいるものがもう一つ手に入るやもしれん」
ヴォルデモートは昔から見慣れている彼女の目を覗き込んで、彼女と同様に笑んで言葉を吐いた。
「――・か」
「セブルス・スネイプという人間が、リリー・ポッター相手に起こした言動を私はよく覚えている。
彼らしくなくお前に彼女を殺さないよう懇願していた。スネイプは彼女を好いていた――」
「だが、彼はすぐに彼女のことは忘れたようだった。現に、今はあの闇祓いと恋仲だ」
「ああ、そうだな。だが、騎士団に繋がる人材にこの情報を渡すのは少し危ないと思う。彼と当の本人は、同じベッドの上にいるんだ」
「以前から感じていたのだが――」
ヴォルデモートの赤い瞳はの姿を捉えた。
「お前は、セブルスを信用していないようだな」
「……ヴォルデモート卿と私は同じ感覚をしているわけではないからな」
はヴォルデモートが座っている椅子へと近付く。
急ごしらえの居住地は古く、饐えた臭いのした屋敷で、その椅子も綻びが目立っていた。
椅子の背に手をついてヴォルデモートの目を覗き込むと、背に垂れていた髪がはらりと肩から胸へと落ちた。
「私とお前は同じ感覚を共有している必要はない。そう思わないか?」
「……そういうことは、女の直感に任せるとしよう」
ヴォルデモートは目を瞑ってそう答えると、目の前に落ちてきた金色の髪を手の平で弄ぶ。
指の間でするすると手触りの良いそれを滑らせた。
は赤い紅を塗った唇を動かした。
「私は、彼女と彼があの立場同士でどうして関係を持っているのかが、未だ理解できていない」
「そういう関係になったのは今から二年前と聞く。彼らの立場はまだ明確ではなかった――今とは違ってな」
やはり、ヴォルデモート卿はセブルス・スネイプを用いて・に対してその関係を利用した作戦を行いたい、と思っているようであった。
しかし、の頭の中からはリリー・ポッターを殺さないよう懇願した彼の姿が離れなかった。
彼の表情は、今までの彼女の長い人生の中で、他と見たことのないものだった。
愛に焼き尽くされた男の姿だった。
「――そうだな、卿」
はそれ以上は何も言わずに唇を閉じた。
セブルス・スネイプは・をリリー・ポッターほどに愛しているのかは知らないが、少なくとも彼は彼女が拷問されるのを快く思わないだろうと思った。
そして、勘の鋭い・のことだ、あまり情報を彼女に近づけたくはなかった。
セブルス・スネイプが本当にこちら側の人間であるのだと、をは信じてはいなかった。
しかし、そんな意見をヴォルデモートに告げるつもりは全くもってなかった。
はヴォルデモートの首元の血管の上を唇で吸い、音を立てて離した。
ルージュの赤い跡が残ると、は顔を上げて今度は彼の薄く色のない唇へ己の柔らかな唇を合わせる。
ぎしりと椅子から音が立ち、の身体がヴォルデモートの身体の上にのりかかった。
人間の身体をした彼が堪らなく愛おしかった。
血管を走る血、骨を覆う肉、長い間それを持ちえなかった彼が、とてつもなく愛おしかった。
この姿でやっと、私はまともに彼を触れることができる。
の頭のどこかが、きっとセブルス・スネイプと・もこのようなことをしているのだろうか、と考えていた。
「……お前は、もし私が死んだらどうする?」
の青い瞳は赤い瞳を見据えた。
赤い瞳は歪んだ。
「お前が死ぬわけがないだろう」
「……では、質問を変えよう。私がお前を裏切ったらどうする?」
赤い瞳はますます歪んだ。
「お前は裏切れない」
「裏切ったら?」
の強い口調に、ヴォルデモートは訝しげな表情を浮かべたが、すぐに当然かのようにこう述べた。
「お前は生きてはいられないだろう」
の唇は笑みを描き、再度彼のものへと下された。
ヴォルデモート――トム・リドル――彼は「愛」というものに価値を置いてはおらず、そもそもそういうものを感じ取ることができない。
心の底からそのことを知っていたのに、それを望んだ私が馬鹿であったと思い直した。
セブルス・スネイプと・の愛の熱気にあてられたのだろうかと思いつつ、の思考はヴォルデモートの思考を辿り始めた。
あなたに殺されるのならば、私は本望だ。
*
「」
はシリウスへ顔を向けた。
彼は最近ご機嫌で、今もニコニコと笑顔を湛えていた。
夏休みのむっつりした彼の姿は見る影もなかった……という存在のお陰だった。
シリウス・ブラックはセブルスが普段ここにはいないからと、グリモールド・プレイスでは好き勝手に振る舞っていた。
彼が幾度となくこちらが設置した垣根を乗り越えて来ようとするのをは押しとどめ、手の平で操っていた。
彼は仲良くなる前に身体の接触を望む性質であるらしい――まあ、今までの彼の生活を考えれば当然かもしれないが――それを笑顔を忘れずにコントロールするのは容易いことであった。
そのため、騎士団員の中にはがシリウスに乗り換えたのではないかという噂も生まれたが、真実は決してそうではなかった。
はセブルスとの約束を忠実に守っていたし、シリウスをないがしろにもしなかった。
「どうしたの?」
「お前に案内したい場所がある」
「……グリモールド・プレイスの中で?」
「ああ」
新手の口説き文句かと考えつつ、この屋敷の中でシリウスに案内してもらうべき場所があったものか考えたが、思い当らなかった。
「ほら、ちょっと付いて来い」
椅子から立ち上がらないの腕をシリウスは掴み、は無理やり立ち上がらせられてそのまま連れて行かれる。
その場には他の人はいなかったため、その様子を見つめる存在はなかった。
シリウスはを引き連れて階段を上がり、廊下を曲がり、人気の全くない屋敷の隅の場所へと連れて行った。
が訝しく思っているとやっとシリウスはの腕を離し、杖である壁の一部を叩いた。
マグル界から入る際のダイアゴン横丁でのように、シリウスが叩いた壁から人が通れる大きさの木目調の扉が現れた。
「ここへ」
が少し驚いて扉を眺めていると、シリウスは畏まって中へ入るようにを促す。
はゆっくりと足を進めて取っ手を捻り、中へ足を踏み入れて、周りを見回した。
「――すごい」
見回す限り本の革の背表紙が並んでいた。
場所自体はそんなに広くはないものの、詰め込まれた本は相当の量に見える。
呆気にとられていたははたと気づき、本棚に歩み寄ってその装丁を眺めて――笑った。
「闇の魔術の本ばっかり。さすがブラック家ね」
「ホグワーツではお目にかからない代物だろう?」
「ええ」
「入り方は教えるから、好きに入って読めば良い。本もここで腐っていくより、誰かに読まれた方が本望だろう」
は本へ向けていた視線を、シリウスへと向けた。
彼はにやけてもおらず、思っていたよりまともな表情をしていた。
は素直に微笑んだ。
「ありがとう。私が喜ぶと思ってくれたのね?」
「最近、お前は自宅に帰るよりここにいるようだったからな」
「とても嬉しいわ」
セブルスがこれを見たらなんというか――と思ったものの、それは口に出さなかった。
シリウスの扱い方は随分と心得たつもりであった。
セブルスがシリウスの名前を聞いただけで機嫌が悪くなるように、シリウスもセブルスの名前を聞くだけで機嫌が悪くなる。
「お前に話したいことがあるんだ」
やはり餌を食わせて彼が何もしないわけがなかった、とは内心思った。
シリウスは獲物を相手に出口を塞ぐかのような位置に立っていた。
は世間話でもするかのように何気なく口を開いた。
「貴方には応えられないと、以前に言ったわ。今も同じよ」
「それは分かっている。ただ……」
目の前の顔立ちの整った男が表情を曇らせた後に、こちらをじっと見据えるのをは見た。
「ただ、お前がスネイプを唯一の存在だと思っているように、俺もお前をそう思っていることだけ、伝えておきたいんだ」
はいつも通りに言葉を返そうと考えていたが、彼のその言葉で口をつぐんだ。
彼を見ながら足を動かすと、黒いマントがひらりと動いた。
は片眉を寄せた。
「……そういうことを測る手段はないということを分かっていて、貴方はそういうことを言ったのね」
はその問いに対するシリウスの答えを望んでいないようで、まじまじと改めてシリウスを眺め出した。
シリウスは口を閉じたままのそういう視線を一身に浴びた。
二人の視線がぴったりと合った。
「――シリウス。やっぱり私は、貴方を解き放った闇祓い相手に、貴方がどうしてそこまで執着するのかが分からないわ」
の言葉は以前と全く同じものであった。
シリウスが口を開く前に、は畳み掛けるように言葉を放った。
「貴方がそういうことに感謝することと、貴方が私を異性として好きになることが、私の中では繋がらないの。
私は闇祓いとして無実の囚人を開け放っただけ。それだけなのに、どうして貴方に好かれるの?
様々な状況が組み合わさって、貴方は貴方の感情に騙されているだけではないの?
……貴方は、私よりも随分そういうことに慣れているはずだから、きっと騙されていたってよく考えたら分かるはずよ」
「……どういう意味だ?」
「貴方、とっても女性にもてていたはずよ。ハンサムだもの。私なんて貴方に構われる対象ではないわ」
シリウスは思い切り吹き出した。
が己をそういう見方をしているなど、全く考えてもいなかった――彼女にとってマイナスイメージだけの存在ではなかったらしい。
は怪訝な表情で彼を見つめると、シリウスはお腹を押さえながら口を開く。
「褒めていただいてありがとう。ただ、お前も綺麗な顔をしていると思うよ」
「……それはどうも」
はあまり嬉しそうな顔を見せず、口だけで述べた。
彼女はあまりそういうことは気にならないらしい。
はそんなことはどうでも良いとでもいうように、続けて言う。
「だから、シリウス、貴方は――」
「お前は俺に好かれるのに不相応だとでも?」
「だって、女性として好かれる要素がないもの」
「じゃあ、スネイプにどうしてお前は好かれていると思っているんだ?」
「あの人は趣味が悪い人よ。私で良いと言うの」
きっぱりとそう言い切ったに、シリウスはようやく納得がいった。
彼女の思考がようやく読めてきた気がした。
シリウスは微笑んだ。
「君はとても魅力的だよ」
目の前のが目を見開いたのを見て、シリウスはきっとスネイプはこのような言葉を述べたことはあまりないのだと思った。
それとも、彼女がこういう言葉を言われ慣れていないのか。
スネイプが言わない言葉をこの場で言う。
「魅力的なものに手を出したいと思うのは当然のことだろう?」
「……私が貴方を解き放ったということは、女性的魅力とは……」
「そういう点を全て含めて、君を魅力的だと思っている」
はシリウスを目を見開いて凝視しながら、思い切り後ずさった。
シリウスは彼女の弱点を見極めた。
そこを突くしかない。
「スネイプが君をそう思っているのに比べても、俺の方が君のことを強く想っている」
は今にも逃げ出したそうに見えた。
額に汗が流れ、顔は強張り、足はシリウスの隙を見出して逃げようとしているかのように動いていた。
こんな彼女の様子を、シリウスは初めて見た。
はふいに視線を足元に向けて、低く呟いた。
「……私のことを貴方は誤解しているわ。私はそんなに良い人間じゃない」
「闇祓いだろう? 何が悪いと言うんだ? 仕事上遭遇することは仕方がない」
の横顔に暗いものが横切ったのを、シリウスは見た。
「……ごめんなさい。私はセブルスを裏切れないし……貴方の気持ちは嬉しいのだけれど……」
――私は貴方の思っているような人間ではないから、という言葉をは飲み込んだ。
この言葉を放ってしまったら、シリウスはまた「そんなことはない」と言うだろう。
そのこと自体、にとっては苦痛であった。
この左腕にはセブルスと同じ印が刻まれている。
シリウス・ブラックに、セブルスと同様にベッドの上で、そのようなものを見せることはできない。
このことは間違いがなかった。
の内心を測れないシリウスは、今までの様子と変わらずに神妙に言葉を述べた。
「……俺はまともな人間ではない。アズカバンに投獄されて、今もこの屋敷に幽閉の身だ。
全身に投獄の際の刺青も残っている。それと比べても、お前はお前自身が「まとも」でないと思うのか?」
「――シリウス。ごめんなさい。本当にごめんなさい……」
は泣きそうな表情をしていた。
「今、貴方に言うことはできないの」
は浅く息を吸ったかと思うと、また浅く息を吐いた。
シリウスはを追い詰めていたらしいことに気づき、驚いた。
こんな様子の彼女も見るのは初めてだった――彼女は一体何を「言うことができない」のか?
何を彼女は隠し持っているのか?
それをスネイプは知っているのか?
しかし、シリウスの口は思惑とは異なり、初志貫徹で勝手に言葉を吐く。
「……俺にはお前しかいないんだ」
も唇を開いた。
「私にはセブルスしかいないわ」
の申し訳なさを強く含んだ拒絶の目を目の前にして、シリウスはこれ以上何も言うことができなかった。
「本当に、ごめんなさい」
手を伸ばせば届く黒い布に包まれた目の前の肉体を独占したいという欲を、シリウスはなんとか収めた。
しかし、からこちらに手を伸ばしてくるのを見て、シリウスの胸は跳ねた。
まるで犬を可愛がるかのように、はシリウスの身体を包んで手の平で背中を撫でる。
「恋人にはなれないけれど、友人にならなれるわ。それでは駄目かしら?」
以前の夜の続きかのようにそうするを見て、そういうことをするからお前から離れられないのだ、と声を大にしたくなった。
耳元で彼女が自分のファーストネームを呼ぶのが聞こえ、さらにその決意は固くなっていった……。
こんなことをしてくれるのは彼女だけで、彼女はこちらの孤独を心得てくれているのだ。
そんなことを分かってくれるのは彼女だけだ。
しかし、これからどのように彼女に応対すれば良いのかが分からなくなってきた。
はセブルス・スネイプから離れることはないのだ。
は視線をシリウスから離すと、目の前に本の波が見えた。
これは彼から私への贈り物なのだと思うと、胸が軋んだ。
彼の心情の理解ができたとしても、私はセブルス・スネイプからは離れることはできないし、離れない。
仕方のないことなのだと自分を納得させるが、経緯はどうであれ今まで生きてきて初めて二人の男から慕われているという状況を信じざるを得なくて、は苦しくなった。
彼は気にしなくて良いと言ったが、彼は確かに無実であったアズカバンの囚人なのだ。
彼の渇きを癒してあげたいと感じるが、それは不可能なことで……は左腕の刻印を強く感じた。
私はここから動けない。
2011/8/28
next
top